2025年12月24日水曜日

「第26回香川靖嗣の會」(喜多能楽堂・令和7年12月14日)

 能「八島」弓流 那須

シテ・香川靖嗣
ツレ・佐々木多門

ワキ・宝生欣哉
ワキツレ・宝生尚哉、宝生朝哉→小林克都

笛・槻宅聡
大鼓・国川純
小鼓・鵜沢洋太郎

後見・塩津哲生、中村邦生
地謡・友枝昭世、長島茂、狩野了一、友枝雄人、金子敬一郎、内田成信、大島輝久、友枝真也

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 「第26回香川靖嗣の会」を拝見しに、改装成った目黒の喜多能楽堂を訪れた。能舞台を訪れることは昨年の「第25回香川靖嗣の会」以来だが、その時には喜多能楽堂は改装中で、矢来能楽堂での開催となったため、喜多能楽堂を訪れるのは何と6年振り。曇天の中、目黒駅まで辿り着き、駅を降りて能楽堂への道を歩むと、多少の変化はあるものの、ほとんど変わらない道筋の佇まいに、6年の経過を思わず忘れそうになる。能楽堂も、内装は一新されたけれども、当然のこととして基本的な造りは変わらず、私にとってはその変わらなさの方が、ここでも6年の歳月の経過を打ち消してくれるかのように感じられる。昨年はお会いできなかった、お世話になった旧知の方が今回は遠路遥々舞台拝見にいらしていて、ご挨拶が叶ったこともまた、隔たりの感覚を紛らわせてくれたように思える。着席して目前に眺める能舞台も、鏡板の前田青邨の松も、橋掛も昔の記憶と違うことなく、前回初めて訪れた矢来能楽堂での所在なさとうって変わって、とはいえ歳月の隔たりのもたらす懐かしさというようなものとも無縁で、ごく単純に旧に復していつもの舞台を拝見するといった感覚だろうか、違うところと言えば、今尚、感染症に罹患するわけにはいかない立場であることから、周囲の咳とかが稍々気になることくらいで、後はこれもこれまでと変わらない圧倒的な舞台に没頭して時が経つのを忘れてしまうことになった。

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 演目は「八島」。シテが演ずる源義経は、私にとって「平家物語」等で馴染みの人物であるけれど、この曲は初見となる。演能前の、これもいつも通りの、小書(今回はシテ方の「弓流」に、アイ方の「那須」が加わる)の解説も織り込まれた、金子直樹先生の丁寧でわかりやすいお話は、「勝修羅のむなしさ」というタイトルの下、勝ち戦の武将をシテとする「勝修羅」物に分類されるこの能が、しかしそうした単純な分類に幾つかの点で収まらない点を指摘されたもので、それは実際に拝見しての印象とも違うことはない。作者世阿弥の自信作であるというお話もあったが、義経という「物語」における稀代のヒーローを主人公とし、人口に膾炙したエピソードをふんだんに織り込むサービスも怠りない一方で、「勝修羅」という言葉からのイメージとは異なって、単純には割り切れない屈折や陰影を孕んでいる点で、確かに実に世阿弥らしい能と感じられた。

 開演直後、囃子方の間合いと調子に、これが修羅物であること、そして修羅物を随分と長いこと拝見していないことに直ちに気付かされる。(この文章を書くにあたり過去の観能記録を振り返ってみたのだが、前回私が修羅物を拝見したのは、何と15年近く前、東日本大震災の直後の2011年の第5回香川靖嗣の會での「朝長」まで遡る。)宝生欣哉さんのワキの僧がワキツレを従えて登場し、屋島への到着が描写され、笛の一声で、今度は香川さんのシテの老人がツレを従えて登場して、僧が一夜の宿を乞うやりとりになるが、この冒頭の部分で感じられたのは、場面や人物の設定がいつにも増してこの能では物語として明確で、いわゆるストーリー性が強いことだ。風景の克明な描写を含む長大な謡や、ワキとシテの詞のやりとりがそうした印象に与っているに違いない。一夜の宿を乞う僧の依頼を一旦は老人が断るところなども昔話のような感触で、見所は舞台上で繰り広げられるやりとりが生み出す確固とした手応えのある物語の空間にすっかり引き込まれしまって後、地謡が入るとようやく僧が塩屋に入り、場所の故事を尋ねる場面に切り替わる。元暦元年三月十八日という具体的な日付も織り込まれたシテの謡に導かれて、聴きごたえのある香川さんと佐々木多門さんの掛け合いと、その後を引き取る友枝昭世さん率いる地謡によって描き出される戦の描写は鮮明にして克明、しかもその内容たるや、世阿弥の贅をこらした趣向と言うべきか、景清と三保の谷の錣引きであったり、佐藤継信や菊王の最期であったりという、いわば「お馴染みの」物語であり、本来ならば悲惨な出来事も、ともすれば「昔語り」に回収され、中和されてしまうかにさえ感じられる。しかしこうした印象はより多く、この能そのものよりも、子供の頃から「平家物語」他の軍記物、更に長じては、それに取材した他の能や浄瑠璃などを受容してきたことによって形づくられてきたイメージという私の側の文脈がもたらすものかも知れず、世阿弥の詞章は、二人の最期に戦場も静まり返り、(丁度、キリでもう一度そうなるように)磯の波と松風の音だけが残る様を描写して「昔語り」を終えることで、勝ち負けを問わない戦の虚しさ、ひいては人間の営みそのものの虚しさをさえ浮かび上がらせるかのようだ。

 名を尋ねる僧に対して、老人は、後で夢の中で見せる修羅場で名乗ると告げ、更には名乗りよりも「よし常=義経」の「憂き世」を見せるから目覚めてはならないと告げて姿を消す。掛詞に隠された名乗りは恐らくワキの僧に直ちには気付かれることがない。一方で見所が感じるのは、それ自体は生き生きとして鮮明な「昔語り」と、その後に残った現実の風景との落差であり、金子先生のおっしゃられた「勝修羅の虚しさ」というのを既に前半の終わりで否応なく感じずにはいられない。いつものことで、自分の表現する語彙の乏しさに嘆息する他ないが、何もない舞台に、春先の海浜の風景を浮かび上がらせ、更に、塩屋の中での語りとともに、目の前の光景が同じ場所でのかつての戦の時点に切り替わり、それが終わると再び、春の海浜の鄙びた静けさが戻るのが、謡とシテの抑制された所作によって鮮明に浮かび上がるのは見事という他ない。

 前場がそうであったように、アイ狂言もまた、役割とか筋書が具体的で、実は老人のものだとばかり思っていた塩屋がアイのものであり、自分に断りもなく僧が塩屋にいるのを発見して咎めることになっているのは他に例があまり思い浮かばない趣向に感じられた。それが小書き「那須」固有のものであるかどうかは詳らかにしないが、世阿弥の仕組んだ前場の趣向からすれば一貫したものと感じられ、違和感はない。続く那須与一の語りは、アイ方の見せ場だが、気迫の籠った迫真の仕方語り、特に指名された与一の心の葛藤から、小舟もろとも波間に揺れる扇、一瞬の凪を捉えて放たれる矢が扇を見事射て空高く飛ばす様と、息もつかせぬ緊張の連続と眼前に見るような鮮やかさで、これも世阿弥が「八島」の能に仕組んだ趣向に違和感なく収まっていると感じた。実は「那須」は、これも遥か以前(調べてみると2006年だった)狂言の会で、独立の作品として今は亡き山本則俊さんにより演じられたのを拝見して、その時も深い感銘を受けたのだったが、アイ狂言としてもとても自然な流れになっており、舞台はそのまま後の場へと流れ込む。

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 この日の後場の舞台の見事さについて私は形容する言葉を持たない。こちらは紛れもない現実である筈の舞台が、舞台で演じられる夢の中の出来事と同様、限りなく鮮明で、永続的に心に刻み込まれて忘れ難いものであるにも関わらず、一度きり演じられて(勿論、舞台写真は撮影されたのだろうけれど)残らないことが余りにもったいなく、だけれどもそれを書き留めようとしても全く言葉が追い付かない無力感、顧みればそれは実はいつも感じることなのだけれども、今回、拝見しながらいつもにもましてその場で強く感じたのは、自分が途轍もない、完璧という言葉が相応しいような圧倒的な舞台に立ち会っているということ、そして自分が、その出来事を受け止めるには全然足りない、その場に居る事に値しない存在であるという、いたたまれない気持ちだった。印象は拝見して後も些かも鮮明さを喪うことがないのだが、その替わりに、その印象を解きほぐして、感動が由って来るところを分析することもまたできそうにない。只々圧倒されて、義経の霊が橋掛かりを通って幕の向こうに去ったのをワキの僧立ちあがって身じろぎもせず舞台上で見収めるや、囃子が留めたその瞬間、私は落涙することを堪えることができなかったということを以て、自分が受けた感銘の強さを証言する他に為す術がない。

 そう言ってしまっては身も蓋もないから、言葉足らずになることを承知で言えば、香川さんのシテは勿論だが、槻宅さん、国川さん、鵜沢さんの囃子方も友枝昭世さん地頭の地謡も、修羅物特有のノリ地の効果も相俟って、これ以上のものを想像することは出来ないと感じさせる程の大きな流れを生み出して、見所はそのうねりを全身で受け止める他ない。特にそのキリの夜明けの描写、瞬く間に戦場の光景が掻き消え、喧噪も遠のいて、シテが橋掛かりを渡って幕に消えると、再び春の早朝の、波の音と松風だけが残るという変化の鮮やかさ、その鮮やかさがもたらす夢の世界と現実とのギャップに眩暈のようなものを感じずにはいられない。と当時に、自分が物凄いものを観てしまったという思いが湧いてきて、それが全身にじわじわと広がり、ひととき作品が与えてくれる印象を凌駕して、内容を問わず、素晴らしい実演に接したことによる感動が心を占めることになる。その感動は何よりもまず、囃子・謡ともども、音曲としての圧倒的な質の高さに拠るものに違いない。それは洋の東西、ジャンルの違いなどものともしないものであり、その一方で、それが心に働きかけ、魂を揺さぶる仕方は、能楽固有のものであり、他に比較すべきものを思い浮かべることができない。

 それに加えて今回は「八島」という曲の持つ、一種独特の、複雑で微妙な陰影が手に取るように感じ取れて、その作品の見事さに圧倒されたという側面もあるだろう。再び作品の側の印象が心を支配すると、このような複雑で屈折に富みつつも、心の奥底を抉るような深く強い印象を与える作品というのが他にあっただろうかと思い浮かべて、(これは冷静に考えれば当たり前のことを言っているに過ぎないが)あまたある他の傑作・名作と異なる、全くユニークな質を備えていることを確認することになる。この題材にしてこの作品を創り上げたことに世阿弥はしてやったりと思ったに違いなく、その得意な気持ちすら手に取るようにわかる気がする程だ。

 これは寧ろパラドキシカルなこととも思えるが、時として夢幻能を拝見した時に浮かぶ疑問、なぜ霊となって回帰するのか、過去の出来事を反復せずにはいられないのかについての疑問が、ことこの作品に限っては答が自明のことに思えて浮かばないことに気付く。何故義経の霊が回帰し、修羅場を演じるのかということについては、彼が軍事の天才であって、戦場は彼がその能力と存在価値を最大限に発揮できる場だったからに違いないのだ。それはトラウマのフラッシュバックというよりは、自分がそれに賭した事柄に対する執心なのではないか。屋島の戦のみならず、壇之浦への言及も含む後場は、だから負修羅物を含む他の修羅物におけるような陰惨な「修羅道の苦しみ」とはやや性質を異にして、勿論、だからといって前向きで晴れがましいものではあり得ないのだが、何か、修羅でしかありえない自分の在り方を再確認しているかのような、不思議な色合いを帯びているかのようだ。「弓流」の小書もまた、単なる趣向を超えて、義経が己れのアイデンティティを賭したその思いの、客観的に見れば不合理で奇矯に感じられるかも知れない強さがそこに集約されていて、その思いを再度確認すべく義経の霊は、繰り返し繰り返しそれを強迫的に反復せずにはいられない、或る種の象徴的な所作なのではないかという印象をさえ覚えた。

 確かにそれは客観的には妄執かも知れないけれども、だけれども人間が「世の成り行き」の中を生きていくためには必要なものであって、具体的に何で、どのように顕れるかは人それぞれであっても、人は皆、そのようなものを抱えて生きている、とどのつまりは、自分もまた同様の(勿論、もっと卑小でみすぼらしいものだけれどもそれでもやはり同類の)修羅に過ぎないのだということを感じたのではないかと思う。これもまた突飛な連想かも知れないが、思わず私は、死後ではなく、常には意識の統制の下に抑え込まれている思念のようなものが、意識の働きが弱った時に、しばしば職業譫妄のようなものとして浮かび上がってくることがあることを思い浮かずにはいられなかった。(私が脈絡もなく思いついた例を2つだけ挙げるならば、一つは大指揮者であったマーラーが、死の床で指揮をする仕草をともに、うわ言でモーツァルトに呼び掛けたという回想を、もう一つは、太平洋戦争末期にビルマにおいて絶望的な防衛戦・退却戦を戦い抜いた宮崎繁三郎中将が、数十年の後、これも死の床において「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?」といううわ言を繰り返したという、これはその話を聞いただけでも心が締め付けられるような回想を挙げることができる。)私個人について言えば、その余りに鮮烈で圧倒的な上演は、一方で身体を通して魂を揺さぶって強烈なカタルシスをもたらすものでありながら、まさにそうであるが故に他方で、どちらかと言えば苦々しい人間の業のようなものへの認識を呼び起すものだったようだ。それを我が事として反芻し、自分の業を再認識するよう、見所の一人一人に問いかけられているように思えたのである。

 このような見方・感じ方は、この能本来の、文字通りの「修羅道」を生きながらにして経験しなくてはならなかった人々の苦しみを思えば、余りに平和呆けした安直なものとお叱りを受けるかも知れず、その批判は甘んじて引き受けざるを得ないけれども、幸いにしてそうした平和な暮らしが出来ていることへの感謝の思いの一方で、人それぞれの「常の憂き世」に、その人なりの「修羅の苦しみ」というものがあって、それはだが、ことによったらその人の存在の意味や価値と表裏一体の関係にあるのでは、という思いもまた払いのけることができない。

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 このように書き綴って来て、まるで演能の記録からは遠く離れた、勝手な主観的な反応、思いを綴っているだけなのではという事を自ら思わざるを得ないし、実際にそのような批判があればそれは甘受する他ないだろうとも思う。だけれども、事実として私がこの日の演能から受け取ったものは、まさしくこのようにしか語れないものだったのだから仕方ない。それにもまして思うのは、一時の個人のエフェメールな印象を超え、このようなことを可能にする能という芸能の奥深さ、世阿弥の作品の見事さであり、それを一期一会の舞台で会を重ねる度に過たず実現し続けることができる香川さんをはじめとする演者の技量の卓越である。繰り返しになるが、この日の演能は、私のこのような舌足らずの言葉で尽くせるものではないし、私のような限られたキャパシティの者に十分に受け取れ切れるものではなく、もっと遥かに価値ある巨大なものだったことは間違いなく、だがそれを伝えることは私に能く為し得るものではない。恐らくは専門的な見地からは、細かく見て技術的に際立っていた箇所が数えきれない程あったに違いないことは想像がつくし、そうでなくても印象に残った部分を挙げようと思えば幾らでも挙げることはできるが、今回については、総体としての印象の大きさが勝って、技術的なことに疎い人間が細部を云々することに意味があるとも思えない。そうしたことは当日見所に居られた、それに相応しい方々に委ね、香川さんをはじめとする演者の方々への畏敬と感謝の気持ちを込めて一旦筆を措くこととさせて頂く。

(2025.12.24初稿)

2024年9月27日金曜日

「第25回香川靖嗣の會」(矢来能楽堂・令和6年9月22日)

 能「卒都婆小町」

シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生欣哉
ワキツレ・宝生尚哉
笛・松田弘之
大鼓・国川純
小鼓・成田達志
後見・塩津哲生、中村邦生、友枝雄人
地謡・友枝昭世、長島茂、狩野了一、金子敬一郎、内田成信、佐々木多門、大島輝久、友枝真也

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 「第25回香川靖嗣の会」を拝見しに、矢来能楽堂を訪れる。と書き付けてみたものの、5年前に目黒の喜多能楽堂で「檜垣」を拝見した感想を記した折に同じように記した時との目も眩むような隔たりに茫然となるばかりで、筆を先に進めることができない。きっかけは2020年の新型コロナウィルス感染症の流行だが、それに加えて身辺の状況の変化により、既に昨年(2023年)のゴールデンウィークを境に新型コロナウィルス感染症の感染症法上の分類は5類に変更され、舞台公演についても既に開催の制限がなくなったにも関わらず、諸般の事情からスケジュールの調整がつかず、年に2回、土曜日に開催される舞台を拝見することが叶わなかった。今回事前に伺ったお話では、個人の会はこれが最後になるかも知れず、その謂わば「舞い納め」として「卒都婆小町」を舞われるとのこと、偶然にも日曜日の午後の開催ということで訪問の予定が立って向かった先は、だが、あの慣れ親しんだ目黒の舞台ではなく矢来能楽堂。実はこちらは既に40年も前の昔のこと、大学に通っていた頃、日仏学院の夜のクラスに通うべくキャンパスから歩いて市谷船河原町まで通う折、矢来町は通り道にあたっていて、夜の帳の降りた中、囃子や謡が漏れ聞こえる能楽堂の脇を通るのが日常であったのだが、その後能を拝見するようになってからも、矢来能楽堂を訪れることは遂になく、今回初めて赴くことになったのであった。

 最初に川崎能楽堂で「阿漕」を拝見したのが2000年だから、それからでも四半世紀が経過したことになるが、25年の中での5年の空白は決して小さくはない。更に「香川靖嗣の会」も今回が25回目だが、前回拝見した「檜垣」が第19回だったから、こちらも同様に、25回の中で5回の空白を隔ててということになる。その空白の間、いわばその中に逼塞することになり、今なお基本的には続いている「別の日常」に馴化してしまった自分が、突然舞台を再訪したとて、そこで繰り広げられる演能を、その価値に相応しい仕方で受け止められるものか、初めて訪れる能楽堂の寄る辺なさと相俟って、心許なさばかりが先に立つような状態だった。客観的に見れば、見所の一人が偶々抱えているこうした個人的な脈絡など取るに足らない、どうでもいいことであって、これは「香川靖嗣の会」の節目となる重要な公演、しかも曲目は平成19年(2007)以来の再演である老女物の「卒都婆小町」ということで、端的に舞台そのものについて、その重要さに相応しい形での記録こそが求められているに違いないが、まず私がその任に堪えないことをこうして記しておく他ない。

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 以前拝見した折と変わらず、開演するとまず最初に金子直樹先生のお話。「卒都婆小町」に関する様々な情報を淀みなく披露され、公演プログラムにお話のタイトルとして記された「果てを覗く」ことについてのお話の後、香川師が80歳になられて、当初は今回が区切りの舞台であったこと、だが来年もまた、現在改修中で来年に再開される喜多能楽堂で「八島」を舞われることを披露され、能楽の世界には定年がなく、可能な限り香川師の舞台を拝見し続けたい旨を述べられて結びとなった。まさに今回の公演の意義を語り尽くされた感があり、当然その後舞台を拝見するにあたり、その内容に色々な形で影響されずはいられない。例えば、覗き見られる「果て」は、まずもって舞台上の老女となった小野小町のそれだろうが、見所で拝見する自分にとっては、演ずる香川師のそれとも重なってくることは避け難い。後でもう一度触れたいが、逆に「定年がない」というのは小野小町たる老女の生き方についても言いうるのではないかといった感慨を抱いたのは、金子先生のお話あってのことに違いない。こんなことを言えば、小町はとっくの昔に「定年退職」し、引退した果てに、今の「定年後」の姿があるのだから、「定年がない」などと言う言い方は筋違いのナンセンスではないか、という反論が直ちに返ってくることであろうが、私が言いたいのはそういうことではなく、「仕事」については「区切り」というものがあるだろうが、「老い」を生きるという過程には到達点がなく、終わりがない――外からやってくる「死」によって永遠の中断されるほかない――のではということなのだ。ともあれ、金子先生のお話の後、続けて狂言があり、20分の休憩の後、これもいつもの如く、楽屋からお調べが聞こえてくると、いよいよ「卒都婆小町」の開演である。

 実は「卒都婆小町」という曲目を拝見するのは今回が初めてではない。これも以前からのことだと記憶するが、今回もまた金子先生はお話の中で、見所に対し「卒都婆小町」を拝見するのが初めてかどうかを問うて挙手を求めていたが、私は2002年に一度拝見したことがあるという事実に即して手を挙げなかった。とはいうものの、まだ能を拝見するようになってから日の浅い時期であったこともあり、予習不足もあり、恥かしながら特に前半の詞章がその場で聞き取れなかったこと以外はほとんど印象が残っていないというのが正直なところだから拝見したうちに数えるのは適当ではないだろう。また2007年の香川師の演能も拝見できていない。従って実質に即するならば初めて拝見するのと余り変わるところがなく、かつてと異なるのは、能楽の形式に馴染み、詞章もある程度は頭に入っているというくらいのことでしかない。

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 だが舞台に入り込めないのではないかという懸念は、松田さんの笛の一閃で杞憂となって消し飛んでしまった。次第の囃子が時間の流れを形作り、僧たちが歩む山間の風景を定着させるとワキ・ワキツレが登場し、都へと歩みを進める頃には、すっかり、あの、馴染み深い能の「風景」が広がっているのが感じられ、物語の中に自然と引き込まれていく。ありきたりの感想だし、これは能楽に限らず、他の優れた音楽作品にも言えることだと思うが、能楽の持つ様式というのは誠に有難く、一度浸かったきり、二度と浸かることのできないエフェメールで頼りない個人の経験の偶然の脈絡よりも、音曲の持つ形式の力の方が永続的で、頼りがいのある確実なものなのだということを感じずにはいられない。勿論、演者がいて、見所がいて、繰り返し上演されることによって継承されるものであるとは言え、ちっぽけで有限の寿命をしか持たない私よりも遥かに長い年月を既に通り抜けて、「卒都婆小町」は今、私の眼前に再び姿を現しているのだということを思わずにはいられない。こと能に関しては、とりわけでも今回拝見したそれについて言えば、見所が上演を「消費」しているという言い方は全く不適切で、逆に仮初めの媒体に過ぎない己を含めて、上演に立ち会ったすべての人を介して、一人一人の人間のスケールを超えて永続する作品が固有のリズムを刻むことに寄与しているに過ぎないのだという感じを否み難く持ったのである。

 僧たちが阿倍野の松原に着くと、小野小町である老女の登場となる。乞丐人とは所謂、物貰い、乞食のことだが、老女の歩みは遅く、たどたどしくはあっても、しっかりとしており、橋掛りの途中で休む様も、疲労困憊の果てというより、予めそのように休みながら足を運ぶという意思に基づく、己の現在の身体的な状況と折り合っての挙措に見え、その姿には気品すら窺える。橋掛から舞台に出て、予め後見によって中央に置かれた蔓桶=卒塔婆に腰を下ろすのも、ゆっくりとしてはいるけれど危なげなく、寧ろ自分の身体の状態を良く把握して、どうすれば安全に確実に座れるかをわかった上での所作にさえ見える。(勿論それは一方では演ずるシテの高度な技量によってのみ可能となる確からしさに裏打ちされたものであるのだが、それを言うならば、そのシテもまた80歳、世間的には「後期高齢者」に属することになる年齢であることに思い起こせば、瞠目せずにはいられない。否、このような技術的細部一つに限らず、そもそも「老い」を演ずることそのものが、技術と体力とのどんなに微妙なバランスの上に成り立ったものであるかは、頭ではわかっているつもりの私のような素人の想像を遥かに超えるものであるに違いなく、只々驚嘆しつつ拝見する他ないのである。)

 橋掛りで一時佇む老女の姿は、確かに避け難い「老い」を背負ってはいるけれど、「老い」を正面から引き受けて生きている人の姿と私には映ったのである。それゆえ、その後、僧たちとの間に繰り広げられる卒塔婆の功徳を巡っての問答で、僧たちが仏教の教義に従って教化しようとするのをあしらって、却ってやりこめてしまい、僧たちの敬意を勝ち取ることになるのも、ごく自然なことに感じられる。過去が余りに輝かしいものであったが故に、殊更にそれとの対比を連ねていく詞章にも関わらず、今のありのままの姿を見れば、ここでも老残というには程遠く、「老い」が備えるとされる、経験の重みに裏打ちされた智慧のようなものを感じさせ、寧ろトルンスタムの言う「老年的超越」こそ相応しいのではないかとさえ感じられた。問答の合い間の僧に対するちょっとした所作もまた凛として、自信と知性に満ちたものに感じられ、さながら老賢女といった風情であって、寧ろ「老い」の在り方の或る種の理想――勿論、だからといって乞丐人の境遇がなくなるわけではなく、況してや「老い」自体が超克されるはずもないことは、後半の舞台が告げる通りなのではあるが、――を示したものなのでは、とさえ感じられたくらいである。

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 ということで、僧の礼拝を受けて後、戯れ歌を歌って結ばれる前半があまりに生き生きとしているがために、自ら名を名乗った後、厳然とした現実である「老い」に立ち返って、老残を嘆く姿も、寧ろ生きている限りは避け難い「老い」から目を逸らさず、それを正面から受け止めようとしているかに見えるのが却って痛々しく感じられる。詞章に沿って為される所作は、詞章の内容に応じて、或る時には昔日の面影を思い起させるようでもあり、或る時には現実に対する率直な嘆きを伝えるものでもあり、だけれどもそれは「老い」そのものの「表現」なのではなく、「老い」に直面した人間の心の反応を映し出すものと私は受け止めた。ここで「老い」は即自的なもの、生物学的・生理学的な老化そのものではなく、それを我が身の現実として認識する主体にとっての対自的なものであり、自己意識を持ち、自伝的自己を備えた人間であれば誰しもが――勿論、私自身も含めて――直面しなくてはならない状況に他ならず、或る意味では自分のものでもある筈の「果て」を、舞台芸術という仮想現実において「覗き」込んでいるのだ、という思いに囚われずはいられなかった。

(勿論これは、介護を通じて「老い」を目の当たりにし、なおかつ自分もまた遠からず還暦を迎えるという、私個人の個別的な状況がもたらした感慨であることを否定するつもりはなく、5年振りに演能に接した主観的な印象に過ぎないが、それでもなお、己れの恣意が産み出したものを対象に押し付けているのではなく、5年間の空白を経て、ほぼ白紙の状態に立ち返って演能に接し受け止めたものに違いない。勿論、後半のイロエを始めとするシテの所作や謡の見事さや、この能ならではの科白劇として面白さを支えるワキの宝生欣哉さんのシテとの遣り取り、そして久しぶりに接して改めて感じた能楽の囃子の響きの美しさ、奥行きの深さ、松田さんの笛のひらめきに満ちて変幻自在な響き、或いは謡を先導し、或いは時として謡の産み出す時間の流れに楔を打ち込み、更には結節点となる一時休止を刻印する国川さん、成田さんの大小、更に加えて、これもかつてと変わらない、流儀ならではの勁さの裡にも微妙に移ろってゆく表情を紡ぎ出す友枝さん地頭の地謡の素晴らしさについて述べることもできるのだろうが、それは技術的な細部を言い当てることができない私如きが能く為し得ることではないし、名演であればこその印象だということは承知の上で、そうした前提となる技術的な卓越を飛び越えて、かつてにも勝って直截に自分の心に届いたもの、演能に触発されて自分の心に去来したものを書き留めておくことを以て稀有な出来事に立ち会ったことを証言することしか私にはできない。)

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 冒頭の金子先生のお話にもあった通り、観阿弥の原作では盛り沢山で非常に長かったものを世阿弥が改作して切り詰めて成ったらしいこの作品は、詞書だけ読むと、後半の場面の転換、特に老残の嘆きから、深草の少将の霊が憑き、囃子があしらう中、物着をして「百夜通い」が演じられ、それが終わると「悟りの道」への希求が語られて結びとなる流れにはどことなく取って付けたように唐突で、多様な要素を詰め込んでポプリ的に接続したような感じすら受けるのだが、この日の舞台の印象は、そうした先入観をあっさり覆すものであった。

 といっても、論理的なコヒーレンスをそこに見出したというわけではない。寧ろ老残の身となり、他人の助けなしでは生きていくことができなくなり、適切なタイミングで助けが得られなければ我が身一つの振る舞いさえ思うに任せない境遇にあって、強い精神的なストレスに晒されれば、知性の働きは未だ衰えずと雖も、時として過去の記憶は曖昧なものとなり、嗜眠傾向の状態ともなれば、夢と現実、現在と過去との区別が曖昧となるというのは寧ろありふれた状況であろう。常には心の奥底に慎重に秘匿された過去の外傷的な経験が、うつつとも知れぬ夢の中で反復され、それが譫妄となって表に現れることにも何の不思議もあるまい。恐らくは、執心の主体が深草の少将なのか、それとも小町自身なのかさえ最早重要ではなく、深草の少将の執心が転移した形で小町自身の執心となって外化したものであっても構わない。更に言えば、もともと個人の心というものは、他者との遭遇、他者からの触発によって形作られたものであって、他者によって住まわれ、他者の声が交響する空間に過ぎないのであれば、深草の少将の憑依の反復によって一旦己を喪うことを通して、小町は「私」を取り戻すのだ、とさえ言えないだろうか?そしてそうした心の消滅と再生のプロセスこそが「悟り」の条件だとしたらどうだろうか?

 それ故にか、突然憑き物が落ちたように「悟りの道」への希求が語られることにも不自然さは感じられなかった。現在能であるこの作品の場合、霊が最後に成仏するという夢幻能の場合とは異なって、全曲の結びは悟りの達成や成仏を告げるものではなく、まさに「卒都婆小町」詞がそう語るように、或る種の無限遠点としての「悟り」に対する希求が残ることになる。小町が「老年的超越」に到達しているのであれば、既に「悟り」は得られている筈なのだから、更に「悟り」への希求が語られるのは矛盾ではないかという反論がありえようが、そもそも「老年的超越」を或る種の不動点、平衡状態への到達として捉えるのは端的に言って誤謬でしかない。「死」であれば不動点、平衡状態として捉えて問題ないだろうが、「老い」は「死」ではないし、「死」を目指した運動でもなく、どこまで行っても「死」は無限の彼方にあって、この「私」がなおも生きなければならない「老い」とは隔たっている。一般的なイメージとしての到達点としての「悟り」は論理的に仮構された虚像の如きものとして捉えるべきであり、「老年的超越」は、それが「老い」の様態の一つである限りにおいて終わりなき運動であり、「悟り」もまた同様に、或る種の無限遠点への運動として捉え返すべきなのではなかろうか。もしそうだとするならば、この「卒都婆小町」という作品は、端的に人間が誰しも引き受けざるを得ない「老い」についての深い智慧を孕んだ作品であることになる。こう書くと如何にも理屈めくが、理屈ではなくして、舞台を拝見して全身をもって受けた止めた印象は、まさにそうしたものであったと思う。

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 金子先生は「果てを覗く」ということに関して、開曲まもなくのシテの橋掛りへの登場、とりわけ途中での一旦休止について語られ、その背後には小町が生きてきた99年の人生の重みがあるのだと指摘されたが、それを受けて演能に接してみると、終曲後、橋掛りをゆっくりと去っていく小町の向かう先には何があるのだろうかということを考えずにはいられなかった。勝手流ながら些かの敷衍を試みることになるが、それは結局(またしても、相変わらず)「老い」に他ならないのではないか、「卒都婆小町」という作品は、老いて物乞いに迄落ちぶれた小町の落魄ぶりを描き出した作品というよりは、そうした小町の姿や振る舞いを通して「老い」の存在論的構造を示し、「老い」に立ち向かう智慧を授けてくれる作品なのではないかというように思えてならない。

 と同時に、冒頭で触れたように、金子先生は能楽の世界には定年がないということを仰って、今回の演能の後も、香川師が演能を続けられる事を述べておられたが、そのことが頭のどこかにあってか、終曲後、小町の装束を付けたまま、否、より正確には、深草の少将の憑依を表現した物着の姿のまま――つまり深草の少将を「演じる」小町として――、橋掛をわたって舞台から去っていく香川師の姿を拝見して、これでおしまいなのではなく、この後も再び舞台に立ち、演能を続けられるのだな、ということを思わずにいられなかった。勿論、元々は今回の演能を以て一区切りとされるおつもりであったのは承知しているし、「仕事」としてであれば「引退」を宣言してけじめをつける、ということは今後当然にあることと思う。だが、そうであったとしても、次がある限り終わりはないのだ。一見矛盾しているように思われるかも知れないが、私の捉え方をありのままに述べれば、時間論的な構造としては、「もう一度」、「次の一回」があるということが、まさに「終わりがない」ことそのものなのだ。そして実は「永遠」というのは、この世の外に、時間を超越して超然として浮かんでいるのではなく、「次の一回」を繰り返すことによって、時間の中を通って限りなく漸近していくしかないのではないか、更に言えば、恐らくは「悟り」についても同様の構造があるのではないか、「悟った」という瞬間が天啓のように降ってくるのではなく、寧ろ「悟り」に向けての漸近のプロセス自体が、それと気づかれることなく「悟り」そのものであるというような構造があるように思うのである。

*   *   *

 演者が演じた内容をではなく、舞い終えた演者の姿を取り立てて言葉を費やすことが、却って演者に対して失礼に当たることを惧れるが、もしそうだとしたらその点については只々お詫びして寛恕を乞う他なく、冒頭述べたように、特に今回は様々な個人的な要因によって、常に無い状況の下で演能を拝見することになったことも与って、自分が演能から受け止めたものを、そのまま書き留めようとすると自ずとこうならざるを得ない。今回の演能が、これまで拝見してきた数多くの香川師の演能と同様に、大変に素晴らしいものであったことは私が敢えて言うまでもなく、能楽については門外漢に過ぎない私にはそれを適切に記述する言葉の用意がないから、それはその能力をお持ちの他の方々に委ねる他なく、この備忘を演能に立ち会った証言の一つとして受け止めて頂ければ幸いである。

 私にとっては以前同様、否、現在の状況を踏まえれば、以前以上に今回の演能に接したことは得難い経験であり、久しく経験していなかった長時間にわたる緊張でくたくたになった一方で、何かが吹っ切れて、日常に逼塞してほとんど見失いかかっていたものが自分の奥底で蘇るような感覚を抱いた。5年間のブランクの後今回の公演に接することで、香川師の演能を拝見することは、私にとって生きるための糧の如きものなのだということを再認することになったのだと思う。端的な言い方をすれば「もう一度」続ける力を与えて頂いた、そっと肩を押して頂いたような気がして――だが、以前拝見していた時もまた演能に接する毎に、そうしたことは起きていたのではなかったか――、もし状況が許せば更に「次の一回」、「八島」が演じられる舞台にも是非足を運びたい。そうしたことへの感謝の気持ちも込めて、最後に香川師をはじめとする演者の方々に謝意と敬意を表しつつ、この拙い証言を閉じることにさせて頂きたい。(2024.9.26-7初稿, 27公開)

2019年9月15日日曜日

「第17回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・令和元年9月14日)

能「檜垣」
シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生欣哉
アイ・野村万蔵
笛・松田弘之
大鼓・国川純
小鼓・大倉源次郎
後見・塩津哲生、中村邦生、友枝雄人
地謡・友枝昭世、粟谷能夫、粟谷明生、長島茂、狩野了一、内田成信、金子敬一郎、大島輝久

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 「第17回香川靖嗣の会」を拝見しに、目黒の舞台を訪れる。春の公演は事情あって拝見できなかったこともあり、約1年ぶりの観能となった公演の演目は秘曲・稀曲として名高い「檜垣」である。

 喜多流では三老女「伯母捨」「檜垣」「関寺小町」のうち、「関寺小町」は故あって上演されることがないとのことなので、第7回目、2013年の「伯母捨」に加えて今回の「檜垣」の演能をもって香川さんは最奥義を窮められたことになる。同じシテの演能によって全能作品中の双璧とされる二作を拝見できることの重みは測り知れず、それを価値に見合った仕方で受け止められるかどうかは措いて、拝見する側の自分にとっても一生に一度の機会となるであろうことは否でも意識せざるを得ない。

 勿論後述のように、近年は老女物も門外不出というようなことはなく、かつては文字通り秘曲であったこの作品も、他流も含めれば、様々なやり方で複数の演能を経験することもできることだろう。それはそれで大変に意義のあることであろうことは、複数の演能を拝見したことのある他の演目について思いを致せば明らかなことであるけれど、私個人の思いはまた別にあって、多忙の言い訳とか負け惜しみという側面は措いて、そもそもが能を拝見すること自体、私にとっては日常の中に穿たれる特異点の如き重みを持った「出来事」であって、軽々と受け流せるものではない上に、演ずる方にとっても最奥の、一生をかけた修練と経験の蓄積の上で演じられることの重みに少しでも釣り合うように、見所の側にもそれなりの構えがあっても良いのでは、ということを思わないでもない。

 最近特に強く思うのは、能に限らずどんな公演も、様々な脈絡の中で幸運にも接することができた貴重なものであるということで、それだけに自分がそこから受け取ったものを無為に墓の中に持って行くようなことは、単なる消費として到底肯んずることのできないものに感じられる。そういう思いを込めて、いつもながらの拙さ、いつも以上の主観的な見方をご勘弁頂ければと思いつつ、以下に感想を記しておきたい。

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「檜垣」は世阿弥の次男元能が書き留めた聞き書きである『申楽談儀』に「世子作」として登場し、世阿弥作ということになっているが、謡本を読む限り、恒例の開演前の金子先生のお話でも述べられていたように、その謡本の短さが世阿弥としては例外的と感じられ、下敷きとした古作の影響もあってか、一度きり世阿弥がミニマリズムに挑んだかいう印象さえ覚える程だ。一読して印象的なのはそのモチーフの集中性で、特に「水」のイマージュ、とりわけ後撰集の和歌を下敷きにした「水は汲む」への集中とそこに存在する重層性・多義性が際立っているように思われる。常とは異なり、遠心的に拡がっていくのではなく、モノトーンという形容すら思いつく程に、抑制され、集中して檜垣の女の「業」が語られるように思えるのだ。

 今日では寧ろこの世阿弥作の能を通じて知られているようだが、往時は「檜垣嫗」の伝説が厚みをもって堆積していたようで、金子先生のお話では面の選択の問題を介して語られていた「老女か否か?」という問題は、そうした厚みに由来する側面があるようだ。例えばそうした典拠の一つである『大和物語』では「檜垣の御」とあって必ずしも老女ではなく、当時の都からすれば辺境に住む教養ある女性といった側面の方が前面に出ている印象を受ける。そして世阿弥の作品はといえば、そうした伝説の厚みを横断して引用のネットワークを作り出すよりは、堆積の一断面を切断して提示することによって自身の思いをそこに籠めたという印象が強く、伝説上の人物に仮託して「業」、「人間」一般の宿命について、もしかしたらそうした「人間」と根源的な形で関わっている筈の「芸術」の宿命と重ねて浮かび上がらせた作品であると私には感じられる。

 キリの短さについても金子先生が言及されていたが、その点に関しては寧ろ、明確な救済を表す詞を欠く点の方が気になった。思えば男女は違えど、やはり老人がシテの作品である「実盛」もそうで、構造的にも類似点が幾つか指摘できようが、比較はそこまでで、何より「実盛」とは時間の流れ方が異なるように感じられ、それに応じて結末の意味も表面的な共通性のみで考えることには無理がありそうに思われる。個人的な前提知識の差もあって、片や「平家物語」等でよく知った「あの」人物の終焉の地での後日譚といった印象なのに対して、そうした文脈を持たない檜垣の女ではそうしたイメージが持てない分、個人の心情を慮るというよりは、より一般的、普遍的な、言ってみれば「神話的」な物語として受け止めざるを得ないという点が大きく与っているに過ぎないかも知れないが。

 水のイマージュということでは、舞台となる岩戸観音に関連した観音と水(水瓶)の結びつきがあろうが、観音利生譚の体裁をとるわけでもなく、舞台の寺も現在では寧ろ宮本武蔵が『五輪書』を書いたことで有名なようだし、更に本尊は馬頭観音(一般には印を結び、水瓶は持たない)とのことであり、寧ろ上記の後撰集の歌に詠い込まれた白河の河畔にある檜垣の女の庵が物語の舞台となる。実際に能舞台の中央には、檜垣が両脇に意匠された作り物が出され、前場では夕闇に紛れるように作り物の中にシテが入って中入りとなるし、後場では、ワキの僧は岩戸山から降りて、白河の畔の庵を訪ねて檜垣の女の霊の供養をすることになる。

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 開演前のお話の中で、金子先生が見所に対して「檜垣」を既に拝見したことがあるかどうかを問うたところ多くの方が既に一度以上拝見されているとのことで、稀曲であるがゆえに当然初めてと思っていた私は大変に驚いた。だが金子先生のお話によれば、近年は年に何番も出るとのことであり、従って見所の多くを占めるであろう能をきちんと勉強されている方にとっては当然のことかも知れず、却って自分の不勉強を思い知らされることになった。なお観世流においては序の舞に加えて、或いは替えての乱拍子の伝承があるやに仄聞するが、これは檜垣の女が白拍子であったことを思えば趣向としては格好のものには違いなく、近年観世流での上演が際立って多いのに与っている可能性はあるだろう。

 そうした訳で、これが初見となる私にしてみれば、他の「檜垣」の演能との比較のしようはないけれど、それでも尚これまでに拝見して来た演能の経験を辿っても、これほど迄に能の表現が先鋭的に拡大され、或いは深く彫啄され、幅広い表現と圧倒的な力を以て迫って来るのに直面し呑み込まれた経験は、これまでにもなかったと感じられた。

 といってもそれは、何か風変わりな演出があったというようなことでは全くなく、寧ろ普段の演目以上に徹底した表現に全編覆われていたということであって、上述の通り詞章が簡潔で求心的である一方で、或いはもしかしたら稀曲であって上演の伝統が少ない分、表現の自由度が高くなるといったことが影響してはいまいかということを思った程である。

 勿論、再演されることによって深められ、洗練される側面は当然にあろうから、とりわけ喜多流における近年の上演における希少性と再演の微妙な均衡が与って、この日の演奏のような、演奏頻度が少ない作品の上演で危惧されるかも知れない類の不安定性を微塵も感じさせない、奇跡的な達成が可能になったということは考えられるかも知れない。

*   *   *

 あえて能の伝統的な語彙を使わずに言えば(というのも、私個人は寧ろ、現代音楽において試みられる表現の探求に近いものを感じ、それがこのような伝統の中で達成されることにしばしば驚きを感じてきたし、今回はそれが最高度に達していると感じ、圧倒されたからなのだが)、聞き取れない程の呟きから、ごつごつとした感じを時として孕みつつも、曲柄に応じてあくまでも静謐さを基調に遺した地謡、これまた表現の幅を極め、音楽的時間の流れにおいても、時として眩暈を感じさせる程の自在さを感じさせた囃子、そしてそれらに支えられ、或る種の無為を感じさせる程に控え目で繊細でありながら芯の通った響きを基調にしつつ、詞章に応じて時には深淵が口を開けるのを間に当たりにするような悲痛な叫びにまで達するシテの謡もまた、それぞれに圧倒的というほかなく、特に後場、作り物の幕が下ろされて檜垣の女が姿を顕したそのままの姿で謡われた「熱鉄の桶を担い、猛火の釣瓶を提げてこの水を汲む、その水湯となって我が身を焼く事隙なけれども」と地獄の責め苦を語る謡は、耳朶にこびりついて離れない。

 前場、ワキの僧の名ノリの後、囃子にさそわれるようにして登場し、橋掛かりの途中で謡い出す次第から始まって、シテの謡と所作の全てが印象的であったと言って良いのだが、その中であえて特筆すべき箇所を挙げるならば、後で別途取り上げる序の舞とそれに続くキリ以外では、先ずは何と言っても後場でシテが作り物の中から姿を顕わす場面に指を屈するべきだろう。

 香川さんのこれまでの舞台の中で、後場、作り物から後シテが顕れる部分は特に圧倒的で、幾つもの忘れることのできない舞台を思い浮かべることができるが、この舞台においてワキの僧に促されて、老いの身を恥じつつも檜垣の庵の作り物を覆う幕が外されて姿を顕わした瞬間の鮮烈さはそれらに勝るとも劣らないものであった。その場の空気が、光の調子を含めて一変し、それを受け止めた見所の雰囲気もまた一瞬の裡に変わる、相転移と呼ぶのがまこと相応しい一瞬というのが今回もまた経験されたのである。

 謡については既に述べたので繰り返さないが、所作としてはやはり金子先生がお話のタイトルとして採り上げられたクセの「釣瓶の懸縄」の箇所の荒々しいまでの感情の激発もさることながら、寧ろ心に残るのは、それとコントラストを為すように立ち尽くして双肩に運命を受け止めているかに見える動かないシテの気を張り詰めた受動性の印象であった。

 ワキもまた、冒頭の岩戸の霊場の雰囲気の定位の確からしさから始まって、特に後場の始めの重要な場所の移動、岩戸観音から霧の立ち籠める白川辺(檜垣女の住居)への辿り着く場面の転換の「不思議や早く日も暮れて、河霧深く立ちこもる、蔭に庵の燈の、ほのかに見ゆる不思議さよ」の鮮やかさも印象的であったが、そうした描写にも増してこの作品において得難く思われたのは、シテとの自然なやりとりの中でシテの詞と行動とを引き出していく間合いの確からしさであり、それはキリにおける、それまで立ち続けていたシテの跪いての合掌に相応しいものと感じられた。

*   *   *

 だが、少なくとも私個人にとって、この演能において、恐らくは自分の寿命が尽きる迄、恰もトラウマのように刻印された印象を心の中で反芻していくことになる箇所を挙げるとなれば、それは序の舞とそれに続くキリで受けた印象の異様さにあるだろう。あくまでも私個人の印象であり、一般化するつもりは全くないけれど、私にはそれが、檜垣の女個人の運命であるというより、「人間」が担わされた宿命を、その時間論的な構造を、(根源的という意味において)ラディカルにリアライズしたものと感じられたのである。

 曲頭の次第から始まって、その後経過を通じて、一貫して老残の果ての現在と栄華に満ちた過去との間の乗り越えることのできない隔たりが繰り返し強調され、還ることなき隔たりにある「過去」をめがけつつも、寧ろ現在と過去の裡にある深淵を感じさせるかのようであったところに、老残の身を意識しつつ、それでも何物かに突き動かされるようにして舞い始める序の舞もまた、その動きはたどたどしくて、それでもなお抑制された所作は美しく、嘗ての舞の上手を彷彿とさせはしても、やはり現在と過去の間に広がる深淵の前にたじろいでしまい、結果としてその舞は、いずれもそれ自体の存在感を感じさせない現在にも過去にも根拠を持つことのない、何物かの影であるかのように感じられる。

 そうした舞の経過の中で驚くべきことが起きる。段の区切りで囃子が完全に停止し、音楽的な流れが一旦完全に休止してしまうのだ。常には間合いを保ちつつ、残響豊かな能舞台において、仮に物理的には多少の空隙が生じたとしても、前の響きが後の響きに有機的に繋がっていく音楽的持続が成立しているものだが、ここではその持続が断たれてしまう。響きの絶えた、凍りついた瞬間の持続(矛盾した言い方に見えるかも知れないが、それは二次的に構成された時間表象から振り返った、遠近法的倒錯によって生み出される錯覚であり、擬似的な矛盾に過ぎない)の中で、檜垣の女もまた立ち尽くす。音楽が、舞が動きを全く止めてしまうのである。

 いや、それは老女物の序の舞の常の作法であって、老女だから休みを入れつつ舞っていくものなのだから、ごく普通のことに過ぎず、そんな見方をするのはおかしいと見巧者の方は仰るかも知れない。それは事実その通りなのだろうと思うから、それに対して抗弁することはしないが、にも関わらず、私が主観的に受け止めた時間の質は、そういう説明が繰り広げられる地平とは懸け離れたものであったのはこれもまた確かなことであり、それを譲るつもりもまた全くない。そればかりか寧ろ、まさにこの休止こそが「檜垣」という作品の「核心」であり、私は幸いにも、今日最高の演者の方々に導かれて、それに触れることが出来たのだと言いたいようにさえ思っているのである。

 百歩譲って、それでは同じ老女物である「伯母捨」の際はどうであったかという比較をしてみても、勿論そこで開示された時間性もまた根源的なものであったけれど、それはシテが「人間」ならぬものに変成する過程に穿たれた休止であって、こちらは老女物の常の作法の了解の枠内で理解ができるものであったように記憶するのに対して、今回の休止の経験はそれとは全く異質のものだったと言いたいのである。

 それを私は、またもや突飛な牽強付会と断じられることを引き受けつつ、ヘルダーリンが「オイディプスの注解」で提示した「中間休止」ないし「一時停止」、もともとは西欧古典詩法の概念の一つであるcaesuraに由来するけれど、ヘルダーリンを介し、その後ベンヤミンが、アドルノが、更にはドゥルーズが基礎的な時間概念として取り上げるそれに突き合わせてみたいのだ。否、正確には、その瞬間を経験した後、「あっ、これだ」と直観したというのが経験したことの正確な説明になるのであって、そんな瞬間にまさかここで遭遇するとは予期していなかっただけに、それは大きな衝撃であると同時に、啓示的とでも言いたくなるような経験であった。

 それは「蝶番の外れた時間」であり、そこで露わになるのは、檜垣の女が想起する或る個別の過去の経験の想起ではなく、自伝的自己を備え、過去の経験を(必ずしも自明なものとしてではなく)自らのものとして引き受けることを余儀なくされ、その裏返しとして老いを意識し、死を意識することを宿命づけられた「人間」が抱え込んだ「構造」そのもの、人間がその下で生きることを運命付けられた条件そのものなのではないか。「一時停止」した瞬間、永遠に続くとも感じられ、見所にとって耐え難い、パニックを惹き起こしかねないような持続において、老女は一息つくべく休憩していたわけではないと私は断言したいのだ。彼女は寧ろ、その主体にとって全くの受動的な状態、いわば仮想的な死とでも言うべき状態を通過していたように感じられたのである。

 それ故、囃子が再開し、シテが動きを取り戻した瞬間、私は震えが止まらなかった。囃子が掛け声とともに刻んでいくリズムがそのまま、生ある存在が、とはいえ単に生命体であるだけではなく、まさに「人間」のような高度な心性を備えた有機体(だが一方でそれは恐らく「人間」に限定されず、或る種の高度な心性を備えた他の種もまた含まれうるだろう)が刻む「生命のリズム」そのものと感じられ、自分の中で血が巡り、温かみが全身に拡がるのを感じたのである。所作が極度に抑制された静かで控えめな舞において、記憶する限り一度きり足拍子が踏まれたのを私が記憶しているのもまた、「中間休止」の後、シテが動き始めて暫くしてからのことであり、その音は、「中間休止」を潜り抜けることによって、何か不可逆の出来事が出来したことに誠に相応しいものと思われた。

*   *   *

 繰り返しになるが、上記のような感じ方が私の主観的なものであり、自己の文脈への牽強付会であることを否定しようとは思わない。私の側にそのようなことが起きる文脈があることに直ちに思い当たるからで、別の(とはいえ、全く無関係ということはないばかりか、根源では同じ基盤の上に立っていることを私は疑わないが)文脈において、自伝的自己を備えた生命体としての「人間」の宿命や、それと不可分の関係にある「芸術」の起源に関する検討にあたり、四半世紀に亘って温めてきた「時の逆流」という概念を切り口に考えて行くという構想を公にし、検討を進めていくことを表明して間もなく、これから具体的な作業に着手すべく、「中間休止」を先ずは取り上げようとした矢先のことであったことが、このような受け止め方に影響しているのは間違いないことだ。だがだからといって、凡百の経験が「中間休止」の範例となる筈はなく、このような稀有な経験ができたことについて、香川さんを始めとする演者の方々に対しては御礼の言葉が見つからない程である。

 だがその一方で、同時にまた、序の舞に後続するキリの部分が私にとっては大きな謎を突きつけるものとなったことを書き留めて、この感想を終えることにしたい。

 「中間休止」を経て「再開」に、いわば「甦生」に成功した主体は、舞を終えるとそのまま、昔を回想しつつ(「昔に帰れ、白河の波」)、「水を汲み続ける」ことを述べ(「水は運びて参らする」)て、自己の救済を願う詞(「罪を浮べ賜び給へて」)とともに、それまで持っていた扇を水平に保持したまま床に置き、ワキの僧に跪いて合掌した後、扇を床に置いたまま立ち上がり、横を向いて留めた後、そのまま舞台を去ってしまう。床に残された扇の印象は鮮烈なものがあり、見所は否応無くその意味に思いを巡らせることを強いられる。

 それをどのように受け止めるかは、序の舞の「意味」同様に見所が自ら探り当てるべきものなのだろうが、まず詞章に基づいて考えるならば、後場の冒頭、檜垣の作り物から外に出た折には持っていた水汲の桶を舞の前に後見が引き取ったことを思い起こして、ここでの扇は水汲の桶を表していると考えるのが自然だろう。「このように水を汲んで持って参ります」と、汲んだ水を満たした桶を置いて去ったのであると。だが、些か瑣事拘泥めくが、再び水を汲み続けるのであれば、桶を持ち帰らないのは何故なのか?という疑問が湧くかも知れない。そのような見方の先にあるのは、同じく救済の願いを述べて終わってしまう老体の能である「実盛」同様、もう水汲みの必要がなくなったのではないか、輪廻の悪循環から開放され、救済されたことを象徴しているのではないか、という解釈であろうか。

 だが私個人の印象はそれとは些か異なるものであった。先行する序の舞での扇の印象があまりに鮮烈であったためか、扇を置いたことが、直接には恰も舞うことの放棄であるかのように感じられたのである。尤もその帰結するところは大きくは異ならないのかも知れない。というのは、恐らくは舞うことと水を汲むことは必ずやどこかで繋がっているからであり、水を汲む必要がないことは、因果の向きの解釈を中断してしまえば、舞うことの放棄と相関しているのは確実だからである。一見したところ舞うことは彼女の若き日の驕慢と結びつき、執心の原因でもあり、彼女が経験した地獄の責め苦、シジュフォスのように水を永遠に汲み続けること(檜垣の女の伝統そのものにはなくても、或る種の神話的な変換により到達できるヴァリアントとして、もしかしたら桶の底は抜けているのかも知れない)の原因であったかに見える。だとしたら、彼女は僧の法要の功徳で舞うことへの執心から開放され、結果として最早水を汲む必要もなくなったということになるのかも知れない。

 だが再び、私は少し違うようにその場で感じたように思う。確かに舞うことは執心であり、そこからの解脱、開放が目指されるべきなのかも知れない。けれども舞うこととは、人間にとって、まさに生きることそのものではないのか?檜垣の女一個人の固有の運命ではなく、それを我事として受け止めた時、各人なりの「舞うこと」を止めることができるだろうか、と問うてみるべきなのではなかろうか?「業」という言葉で名指されているそれは、世阿弥にとって、そして同じく能楽師である香川さんにとっても、文字通り舞うことに他ならないだろうが、そうではない人間にとってもまた、別に他の何か、生き続ける理由であって良いのではなかろうか?そしてそれは、個別の経験を超えて、今ある姿の「人間」が構造的に抱え込んでしまった宿命の如きものではなかろうか?私はあろうことか、「檜垣」の中に、「人間」が「人間」であり続けるための条件、引き受けざるを得ない宿命のようなものを見てしまったように感じたのである。

*   *   *

 またもや異なる文脈、差し当たりは西洋で主張された説の紹介となり恐縮だが、ジュリアン・ジェインズは西洋の歴史の中でホメロスの『イリアス』の時代においては、現在と心の構造が異なっていて、人間は自伝的自己を備えた意識ある存在ではなく、現在なら「幻聴」として認識される右脳からの「神の言葉」を左脳が受け取って、その命ずるままに行動する「二分心」の時代があったという仮説を提唱している。「二分心」の時代には、コンピュータがプログラムの通りに動作するというのと或る意味では重なる(だが次厳密に言えばそれとは区別される)意味合いにおいて神の命じるままに、現在のみに生きていたものが、農耕と戦乱といった社会構造の変化や文字の発達などといった要因から「神の言葉」が聴こえなくなり、その結果として各人が異なる仕方で、自伝的自己ある高度な意識を備えることと引き換えに、「隠れたる神」への呼びかけを行うことでようやく生きる意味を見出しうるのではないかと論じているのである。(そしてその意識の獲得の過程を、その結果陥ることになった野蛮ともども刻印しているのが、アドルノが『啓蒙の弁証法』において取り上げている『オデュッセイア』に他ならない。)

 そしてそこでは「芸術」「芸能」は、まさに「業」として引き受けることを余儀なくされた「人間」の宿命とされているのである。(「檜垣」に関してしばしば示唆される「遊女」としての「業」に象徴される性的なものとて、単純にそれが個体の有限性と引替えに選択された有性生殖の機構として捉えるのであれば、「人間」の成立から遥かに遡って、寧ろ地球上の「生命」の進化の謎の問題となるであろうけれど、寧ろここでの問題は、やはりジェインズが述べているように、意識を持つ存在となることと呼応して本能から分離した結果、性的なものに対する自己認識が成立したことと呼応していると考えるべきであるように思われる。)

 「人間」の宿命というのが余りに大袈裟で、大上段に振り被った物言いであるという咎めに対しては、芸能が、芸術が何時から存在するのか、何故存在するのか、そして何時まで存在するのか?(というのも、今やAIの発達に伴い、技術的特異点(シンギュラリティ)の向こう側が論じられるようになっているからであるが)ということに限定しても尚、「檜垣」はその根源的な在り方を示し、答を示唆しているように思われる、と応えたい。恐らくはその是非は措いて、人間が人間であり続ける限り芸能・芸術がなくなることはないし、裏返せば「AIによるAIのための芸術」は、現時点の技術的な達成水準においては端的に不可能なのである。芸術は一見したところ余剰、徒花に見えて実際にはそうではなく、人間が人間であることの基本的な条件に関わっているという構造がここで示されているに違いないのである。

 それにしても舞の停止、舞の放棄が何を意味するのかという問いは依然として開かれたままであるが、ここで私にできることは、今ひとつの中間休止たる「息のめぐらし(Atemwende)」こそが「詩」であるとする、パウル・ツェランの講演「子午線」を参照し、かつての執心の対象であり、ここで停止したものが何で、その替わりに解き放たれたものが何であるか、あるいはまた、何がそのことを可能にしたかについて考える導きとすることでしかない。

「(…)
 詩―それは息のめぐらしを意味するものであるかもしれません。詩はもしかするとその道のりを―芸術の道のりでもある道のりを―このような息のめぐらしのために進むのではないでしょうか?
 もしかすると詩は、疎ましいもの、つまり奈落ならびにメドゥーサの首、深淵ならびに自動機械が、まったく同じ方向に並ぶように思われるところ―まさしくそこで、疎ましいものから疎ましいものを区別することに成功するのではないでしょうか。もしかするとそこで、メドゥーサの首はたじろぎすくみ、自動機械は停止してしまうのではないでしょうか―一度しかないこの短い瞬間に?
 もしかするとそこで、一つの「わたし」とともに―そこでそのようにして解き放たれ疎ましいものとなった「わたし」とともに―もう一つの「別のもの」が、自由の身の上となるのではないでしょうか?
 もしかすると詩は、このときから、自己自身となり…こうしてこの芸術のない、芸術から解放されたありかたで、これまでとは別の道のり、しかもやはり芸術の道のりではある道のりを、進んでいくのではないでしょうか―一筋に?
 (…)
 詩は―あれこれの極端な定式化のすえにさらにもう一つ定式化することをお許し下さい―詩は、おのれみずからのぎりぎりの限界において自己主張するものです。―それは、みずからの「もはやない」からみずからの「まだある」の中になおも存続しうるために、みずからを呼びもどし連れもどすものです。
 この「なおまだ」はただ一つの語りかけであるかもしれません。つまり、単なる言葉ではなく、ましてやおそらく言葉からの「語呂合わせ」などではないのです。
 そうではなくて、現実のものとなった言葉、ラディカルではあっても同時にまた言葉によって画される境界や言葉によってひらかれる可能性を記憶しつづけるところの個人的なしるしを帯びた、解き放たれた言葉なのです。
 詩の「なおまだ」は、自分がみずからの存在の傾斜角のもとで、みじめな生き物としてのみずからの存在の傾斜角のもとで語っていることを忘れない人間の詩の中にのみ見出されるものかもしれません。
 とすれば詩は―これまでよりさらに明確に―ひとりひとりの人間の、姿をとった言葉であり、―そのひたすらに内面的な本質からいって、現在であり現前であるのです。
 詩はひとりぼっちなものです。詩はひとりぼっちなものであり、道の途上にあります。詩を書くものは詩につきそって行きます。
 しかし詩はまさにそれゆえに、つまりこの点においてすでに、出会いの中に置かれているのではいでしょうか?―出会いの神秘のうちに。
 (…)」(飯吉光夫訳)

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 そしてそうした認識に立つとき、この能が数多ある作品の中での最奥に位置づけられることも不思議ではないように感じられる。現在と断絶した過去の記憶に基づく自伝的自己としてのアイデンティティーは、そのまま「老い」と「死」の自覚に繋がり、それらを「中間休止」の毎に通過して甦ることによって存続しているという「自己」の「構造そのもの」をここまで端的に提示する作品は他には思いつかない。

 世阿弥の芸能・芸術論がしばしば人間の生き様に関する示唆として読まれるのも不思議なことや不当な拡大解釈ではなく、寧ろ、生きることというのはどこかで美的なものを通じて自分が発生した条件を超えていくことそのものであり、逆にそのような生き方はどこかで芸能・芸術に繋がっているからではなかろうか。そしてその限りにおいてもまた、「檜垣」程に普遍性のある作品は思い浮かばない。そしてもしそうであるならば、個々人の観能の経験をどのようにして自分の事として咀嚼するかは、見所の各々に課せられた宿題なのだろう。

 繰り返しになるが、私個人としては、まさにこのタイミングで他ならぬこの演能に接することができた僥倖を改めて強く感じずにはいられない。これまた人それぞれであることは承知の上で、再度我事として思えば、同じ演能であっても、例えばこれを30歳半ばを過ぎる手前で拝見して同じように受容できたとは到底思えない。更にまた、演者の一生をかけての修行の過程におけるそれも含めた演能の持つ重みを思えば、それに十分に見合ったように自分が受け止められているかどうかについては心許ない限りだが、さりとて、例えばもう数年馬齢を重ねてから接したとて私の能力の限界が変わるとも思えず、受け止め方は恐らく大きく変わることはないのかも知れない。以前、別の演能の感想を記す折、死を直前にしたデリダの「生きることを学ぶ、終に」という言葉を思い浮かべたが、結局のところ、それを愈々我事として何処まで引き受けられるかに懸かっているに違いない。

 だが、そんな宛て処のない思いに耽ることは止め、時間はかかっても、受け止めたものを自分なりに咀嚼し、拙いなりにでも表現や行動に齎すことこそ、受け止めたものに相応しい応答として求められていることに違いない。それについては後日を期することにして、もう一度香川さんを始めとする演者の方々に感謝の言葉を述べて、一旦はこの拙い感想の結びとしたい。(2019.9.15初稿)

2018年9月24日月曜日

「第15回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成30年9月15日)

狂言「鐘の音」
シテ・山本則俊
アド・山本泰太郎
アド・若松隆

能「天鼓」
シテ・香川靖嗣
ワキ・森常好
アイ・山本則重
後見・塩津哲生、中村邦生
笛・一噌幸弘
小鼓・曽和正博
大鼓・国川純
太鼓・小寺佐七
地謡・友枝昭世、粟谷能生、出雲康雅、粟谷明生、長島茂、友枝雄人、内田成信、佐々木多門

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 春秋2回開催となって3年目の香川靖嗣の會、春の「桜川」に続いて、秋の「天鼓」を拝見しに、 目黒の舞台を訪れる。昨年の「山姥」は急用のため拝見できなかったため、秋は「遊行柳」以来となる。 番組の前半は山本則俊さんの圧倒的な狂言「鐘の音」。いつも通り、こちらは別に感想を纏めることとして、 以下では「天鼓」の感想を記しておきたい。

 一言だけ記せば、「天鼓」が鼓の「音」についての物語で あるように、「鐘の音」も音に関わり、かつその祝言性が強く感じ取れたこと(これはそれぞれの持つ 演能の性格による部分も大きいだろうが、私個人としては、まさにそれを経験するために舞台を訪れて いるというそのものに他ならない)、いずれも後半の舞、仕方話が劇の内部に埋め込まれつつも そこから超出して、文字通り舞台を奉納そのものとする点において共通していて、番組構成の巧みさを 感じた。

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冒頭のお話は秋の恒例で金子直樹先生。例によって丁寧な解説で、特に印象的だったのは、 この作品については、いわゆる典拠が知られていないことを、世阿弥的な類型からすれば形式的には破格と 感じられる、ワキによる冒頭の長大な「物語」の提示の理由と関連づけられて言及された点と、 「藤戸」との構造的な類似性を、両者における前シテの感情のコントラストと共に指摘されていた点、 更には、喜多流では常には入らない太鼓が入ることと、楽の調子が盤渉調で奏されるという点。

 拝見すればわかることだが、単にシテが前後で異なるだけではなく、前場の末尾のアイによる送リ込ミも 共通していて鮮明な印象を残す。シテが前後で異なるということでは「朝長」が思い浮かぶが、 いずれも作者として元雅が擬定されていることは興味深い。前シテの息子を喪った父親の感情が、 「藤戸」の母親と異なって、冷えきっていることを金子先生は指摘されていたが、単純には分裂している という印象を与えかねない前場と後場の関係や、恨みが物語を展開させる動因となっていないという点も含め、 見方によってはやや不自然と感じる向きもあろう設定は、後場に現われる天鼓の霊が、理不尽な死への恨みを 述べることを一切せず、追悼の管弦講に感謝し、只管に鼓との再会を喜び、楽を舞うことと対応していているようだ。不自然といえばこちらの方が一層徹底していて、枠組みを借りつつも、作者の意図が全く別の処に在る 事は明らかなことのように思われる。そしてそれは結局、典拠がない、「ありえたかも知れない物語」を作者が仮構した点と結びついている、というのが 拝見しての感想であった。漢の時代の中国という、外国の話というのも、要するに「今」でなく、かつての「此処」ですらない、「ありえたかも知れない」 想像上の極東の国に物語を設定したということであろう。

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 上のように書くと、如何にも冷静に、頭で演能を拝見したように取られるかも知れないので 急いで否定しておくと、この日の演能は、これまで私が拝見した能の中でも、音楽的な経験の密度の 充実の点では屈指のものであって、囃子、地謡、そして後場の中核をなす楽の舞に、只々圧倒される他 なかった。終演後、香川さんの下で永年に亘って能を習われてきた方にそうした感想を告げたところ、 「自分が舞いたいと感じた」と仰っておられたが、この日の演能の素晴らしさを語るのに、 これ以上の言葉があるとも思えない。

 能は一面においては演劇であり、多くの場合、眼前で心の動きが無意識のレベルまで露わにされ、 生の軌跡が浮かび上がるのに涙し、カタルシスを感じることになるのだが、この作品は、典拠に拠らず、 物語を仮構することによって、「音楽」そのもの(その起源においてそれは舞を必須の構成要素と していた点は留意しておいて良いだろう)を提示することに主眼があったのではと思わずにはいられない、 かほど左様にその「音楽」は圧倒的であり、見所で坐っていながらにして、音の奔流に巻き込まれて 眩暈を感じる程の強烈さであった。音楽を聴いていて、悲しいわけでもないのに、そこに立ちあがる音楽の美しさ、しなやかな勁さ、身体に沁みとおるその密度に圧倒され、感極まって涙を 堪えきれなくなることが時々起きるが、今回の観能で起きたのはまさにそれであった。

 後場の楽において鼓と再会した天鼓が無心に舞を舞う姿は、限りなく透明で純粋なものだ。 母親が鼓の夢を見て懐胎したという謂れを持つ少年天鼓は、天から降ってきた鼓そのもの、要するに鼓の精なのだが、 更にそれは、謂わば音楽の化身に他ならないだろう。 香川さんが、舞だけ切り取ったとしても、それだけで見所を圧倒することができるシテであることは、数多いとは到底いえないこれまでの観能の中でさえしばしば 経験してきたのだが、今回の経験はその中でも、その純粋さと透明感、輝きと軽やかさにおいて際立ったものだった。 人間ならぬ精霊を演じて、その無垢を、神々しさを、人間離れした純粋さを体現することにかけて 香川さんに替る存在は考えられないが、音楽の精が舞うことが作品の中核をなす「天鼓」という曲は まさにうってつけの作品であろう。勿論それは、作品に対する細心の配慮と長年の鍛錬に裏打ちされたものに 違いないのだが、拝見している最中には、そうしたことは忘れ去られ、見所もまた無心になって 笑みを浮かべ、恍惚とした表情を湛えた精霊の舞に自らを同化させる外ない。

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 些か先走ってしまったが、観能後暫くの時を隔てた現時点ですら、演能の一齣一齣が鮮やかに 思い浮かぶ。どの細部をとっても充実していて枚挙に暇はないのだが、印象に残った箇所を 時系列で記しておくことにしたい。

 まずは問題の冒頭、森常好さんによるワキの「物語」。天鼓の父、王伯を訪れた臣下という 劇中の役割を帯びていて、だがナレーションのようでもある不思議な感じ。ワキはシテに対する 外部の視線を構成すると言われるが、常のワキの役割とも異なるように感じられる。 論理的な解釈としてよりも、感覚的印象として、1レベル外側、物語を外部から語るかのように 感じられる。喩えて言うなれば、夢を見ている意識が、それが夢であることを意識しつつ夢の中の登場人物でも あるかのような二重性に近いだろうか。

 前場の頂点は、鳴らなくなった鼓を鳴らすという無理難題を命ぜられ、抵抗することもできずに 召喚される他ない王伯(彼が「罪」という言葉を口にするのを聞いて、ぎくりとする。一体何が 罪なのか、見所は戸惑うしかない)によって音が鳴らされた瞬間であろう。 はっきりと翁の表情が変わって、それまで滅していたかに見えた何かが確かに甦ったことが感じ取れる。 亡き子供への思いが鼓を鳴らすと説明すればわかりやすそうだが、舞台を拝見した印象はそうではない。 子供の形見、否、寧ろ分身という方が相応しいかも知れない鼓と再会し、それを手にとった時に、王伯の心の中に 何かが起きたのだ。

 そもそもが王伯夫婦にとっての天鼓は、竹取の翁にとってのかぐや姫のような 存在であったろう。鼓がそうであるように、天鼓自身もまた、天からの授かり物なのだ。天鼓が地上に降り立つにあたって何故王伯夫妻が 選ばれたのか、物語は説明をしないけれど、ともかくも鼓に再会した瞬間に、再び王伯の中で何かが起きて、 結果として鼓が鳴る。そうした何かを備えた人物として王伯は設定されていて、尚且つ鳴った鼓が、凍てついた王伯の心を溶かし、失ったかに見えた力を甦らせていく、その変容のプロセスを、 動きの抑制された舞台の上で目の当たりにするのは、奇跡に立ち会っているようなものだ。 だけれどもその抑制された動きによって、実際に打ち鳴らされるわけではない鼓の音が一瞬響いたように 見所が錯覚し、いや、もしかしたらそれは王伯の心の裡で何かが甦った徴候ではないかと見所が いぶかしむのは、能の様式の力であり、香川さんの巧まざる演技の力でなくてなんであろう。

 金子先生が予め指摘されていたように、その転換こそは論理的には後の場の管弦講を準備するものなのだが、 王伯が鼓を鳴らすことが既に招魂に他ならず、その聴こえない音は、時が逆流し、 蘇生と復活が行われる時間論的な消息を告げるものであることの実感が論理を圧倒してしまうように 感じられる。王伯は再び呼び出されたのだ、王伯を通じて、見所の我々にも「来たれ」の召喚の声が 鳴り響いたのだという揺るぎのない感覚に捉われる。逆説的なことだが、それを惹き起こしたのは、受動性の極みに達した 王伯の、自己放棄そのものなのではないかというようにも感じられる。

 以前拝見した「藤戸」の送リ込ミを彷彿とさせる山本則重さんの送リ込ミとそれに続く見事なアイの語りの後、 見所の意識が集中する揚幕から出現するのは、論理的には天鼓の「亡霊」ということになるのだろうし、 実際、本人がそのように名乗リもするのだが、私には、これこそが本来の天鼓の姿である、寧ろ鼓の精が本来の姿で出現したようにさえ感じられる。管弦講への感謝を述べはしても、自分が被った理不尽な死についての 呪詛はない。王伯と同様、天鼓もまた到来した鼓との再会と自己の蘇生の響きとを聴き取るばかりであるかの ようであって、生前の天鼓を知らない私は、もともと天鼓というのは、このようにこの世ならぬ、透明で 純粋な存在ではなかったかと思わずにはいられない。微笑を湛えて無心に舞っているのは年齢というものを超越した永遠の子供であり、その姿は人間が現実には遁れることのできない老いから自由であるかのようで、実際にはそれを人間が演じているという事実は、舞台を拝見している時間の中では忘れ去られてしまう。

 鼓が設えられた一畳台の上での動きの自在さは 驚くべきものだし(実際には、面で視界が著しく制限された状態のはずなのだが、そうしたことは 微塵も感じさせない)、舞となれば、まるで重力から自由でありうるかのように舞台を軽やかに巡って、 時折響く足拍子も、能舞台の床に張られた透明な水平な膜が鼓となって妙音を響かせているかのようだ。

 金子先生の指摘される「藤戸」との共通性は、 水に沈められての死という点にまで及んでいるのだが、「藤戸」との類似はそこまでで、この能の後場において、彼の屍が沈んでいる筈の呂水の水は、盤渉調の青色の奔流によって「生命の水」と化するかのようだ。 追加された太鼓もまた、そうした流れの勢いの印象を強める。既に述べたように囃子の素晴らしさは、空前絶後という形容をしたくなる 程だったが、天鼓を舞へと誘うワキの謡もまた、シテを召喚するマントラのようだ。それに呼応する太鼓を伴う囃子によって流水のイメージが増幅され、波濤の砕けたしぶきが月光に照らされて青白く煌めくのを目にするかに感じられる。 常には西洋のクラシック音楽を聴くときに感じられる共感覚を、能の舞台でかくも鮮明に感じ取ったのは 初めてのことだった。

 楽を舞う天鼓の表情の豊かさ、充溢する喜びの感情は、圧倒的な囃子ともども見所に働きかけ、 会場全体がよろこびの波動によって満たされていく。無心に舞を舞う姿に涙せずにはおれないが、 その涙は音楽をこちらもまた子供の心に還って無心に享受するよろこびのそれであるという他ない。

 キリに至り、シテが舞台を廻るに至り、 見所に座していながらに眩暈のような感覚に襲われて、一体ここはどこなのか?自分は何を見ているのか? 何が幻想で何が現実なのかの区別がなくなっていくかのような感じに支配される。 「また寄りてうつつか夢か」というのは、そうした己の感覚を述べているのではないかと思える程に。「夢、幻となりにけり」で突然舞台が静止し、それまでの絢爛たる音響の坩堝から静寂へと切り替わる。見所は魔法にかかったように、しわぶき一つ立てずに静まり返ったままで、ようやく 地謡が席を立ち、囃子方が橋掛かりを渡って舞台を去る頃になって、我に返ったかのように何時に無く 大きな拍手が舞台を包む。

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 今回の上演が、例えば技術的にどうであったかというのを語るのは私には荷に余ることだが、 最後に幾つか、帰途に思い浮かべたことを記してこの感想の結びとしたい。

 冒頭、ワキが語る物語が、まるで物語の外部のナレーションのようだ、と先に記したが、 それに照応するように、実感としては、後場もまた物語の外部であり、物語を内側から 現世的な視点で眺めた場合には、鼓が鳴ったことで生じた幻想であるもの、まずもって王伯が見て、恐らくはその場に居た人間の共同幻想であったでろうものが、この作品そのものであること、 音楽の持つ呪術的な力が作品を支える原動力でありながら、同時に作品のテーマでもあるといったこの作品のユニークな構造を感じずにはいられなかった。

 一見したところ必然性に乏しく、有機的に機能していないかに思われる物語を支える因果もまた、 外側から眺めたとき、なぜ天鼓は死ななくてはならなかったのかという問いに対して、そもそもが天鼓の存在 そのものが、現世的な秩序、世の成行きを超越した側面を孕んでいることの結果として了解することが できようし、天からの授かりものとしての天鼓と彼を追うように天から降ってきた鼓の二重性もまた、イデアルで人間の耳には聴こえない「天球の音楽」(それを「聴く」ためには法則性を解き明かすための数学が必要とされる)としての音楽と、そうした音楽を化体し、人間に聴き取れるものとするメディアとしての楽器の持つ呪術性という観点から捉えることができるように思われるのである。

 それらは総じて、ジャンルの違いを超えて、メディアアートのような領域で追求されているテーマに そのまま通じているように思われる。そうした見方に立てば、能楽は時代を超え、 今日なお、最高度のポテンシャルを備えた最高級のメディアアートに他ならず、この日の演能は、その考えうる 究極の達成の一つであったというように思えてならないのである。

 そういう文脈において直ちに私が思い浮かべたのは、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」を 初めとする「音楽」の根源を問い直す取り組みであった。例えば「天鼓」という作品の持つ、典拠の欠如という性格もまた。 不在の、架空の典拠を仮構し、「…という夢を見た。」というフレームで作品を括弧入れするという 三輪さんの批判的な姿勢に通じるものを読み取ることができるように思えるのである。そしてなにより少年の形象において、両者に通底するものを見ることができるのではないか。「天鼓」というのは、まさに「新しい時代」で、最後に自分の声で歌を歌うことができた「昇天少年」に他ならないではなかろうか。

  だがそれ以上に重要に思われるのは、「ありえたかもしれない」物語の創造が、まずもって死者の無念を 弔うためのものであること、そのことによって、メタレベルから出発しつつも階層を超えて、 「音楽」そのものとしての呪術性を獲得している点であろう。一見したところ現代の高度なテクノロジーを駆使しているかに見える三輪さんの作品がそうして姿勢において一貫していることは、その試みの射程を捉えるうえで極めて重要な点だと思うが、「天鼓」という作品もまた、典拠を仮構し、 死者の無念を弔いのための「音楽」というフレームを用意するという、ジャンルに対する自己言及的性、 メタな側面を持っていると同時に、それ自体が優れて「音楽」そのものでもあるという点において 著しい並行性を示しているように思われたのである。

 だけれども、それはあくまでも枠組に過ぎない。意図を最高度の実現にもたらすのは、演者の力に他ならないのだ。 それゆえ私がこの演能に接して最も強く感じ、深く納得したことは、プログラムに香川さん御自身が記された、この「天鼓」という作品に 寄せる愛着であり、作品の意図を実現するための太鼓の使用という判断の正しさであった。まさにこの日の演能は、 見所全体を圧倒する「舞う歓び」に満ちたものであり、それはまた、太鼓を伴う盤渉調の囃子によって 持ちうる最高のポテンシャルを実現したものであった。私自身は自分の能力の制限に応じて、 その全体のごく僅かを受けとめただけであるにせよ、見所にとって、この日の演能のような達成に 立ち会うこと以上の歓びがあるとは思えない。心からの感謝の気持を込めて、香川さんをはじめとする演者の方々に 御礼申上げることで感想の結びとする次第である。(2018.9.24 初稿公開)

2018年8月25日土曜日

「第114回川崎市定期能」(川崎能楽堂・平成30年8月11日)

「第114回川崎市定期能」第2部
能「融」

シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生欣哉
アイ・竹山悠樹
後見・友枝昭世・狩野了一
笛・栗林祐輔
小鼓・森貴史
大鼓・大倉慶乃助
太鼓・林雄一郎
地謡・長島茂・金子敬一郎・友枝雄人・内田成信・大島輝久・佐々木多門

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「融」を拝見しに川崎能楽堂を訪れる。香川さんの「融」は2度目。記憶する限り、香川さんの演能で同一演目を2度拝見するのは初めてではないか。前回の記録を紐解くと、喜多流職分会2002年11月自主公演能(喜多六平太記念能楽堂・2002年11月24日)の最後の演目だったようだ。ワキ・工藤和哉、アイ・三宅右矩、後見・佐々木宗生・内田安信、笛・一噌幸弘、小鼓・大倉源次郎、大鼓・柿原崇志、太鼓・金春惣右衛門、地謡・大島政允・出雲康雅・粟谷明生・梅津忠弘・松井彬・金子敬一郎・佐々木多門・大島輝久という演者による演能で、当時はまだ能を定期的に拝見するようになって間もなくのことで、メモ書き程度の短い感想として、「「融」はシテの姿の美しさが何よりも印象的。月の光が満ち溢れるような透明感、高貴さの 中に時折ふと執着の相を垣間見せる融の大臣の表情に驚いた。終結で天上へと戻っていく様は 鮮やかで、ワキの僧の留拍子に思わず、今まで眼前に繰り広げられた光景への驚きの気持ちを 投影してしまった。」と書き留めてあるだけ。だが、この舌足らずの短い感想を書いたことはほとんど忘れてしまっていても、演能そのものの印象の方は、遥かに強く、消し難く刻印されていて、とりわけても後場の舞の鮮やかさと、舞台に溢れる月の光の感じは褪せることなく、15年もの歳月が経過したことに驚いた。

以下、今回の観能の感想を記すが、いつもの通り、それは多分に私の個人的な文脈が影響したものとならざるを得ない。シテは同じでも、ワキ、アイ、地謡、囃子方も異なる。いや、同じ演者であっても15年間の様々な経験があるのだが、それ以上に、目黒の舞台と川崎能楽堂の違いから始まって、当日の体調や心理状態に加え、こちらもまた(観能に留まらない)様々な経験と、その延長にある直近の文脈(何に関心を抱いているか、或はもっと端的に、その時に読みかかっている本は何かetc.)とが観能の方向性を決定づけることは避け難い。それを前提に、端的な印象を述べれば、何よりも今回、この「融」という能が、今日的な言葉で言えば、ヴァーチャル・リアリティを巡っての、だが実際にはその言葉が通常持っている意味合いを超えて、ヴァーチャリティそのものについて、数百年の年月を超えてなおますます光輝を増すかにさえ見える透徹した認識と、その可能性の徹底した展開の達成を強く感じたということになるだろうか。それはまた、これは恐らく狭くて客席と舞台との距離が非常に近いこの能楽堂の特性もあって、特に前場の、如何にも世阿弥らしい僧と潮汲みの翁の対話を通じて浮かび挙がってくる「風景」の強烈なリアリティあってのことに違いない。

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開演時間は15:00で、前に狂言一番の後、休憩なしでお調べが聞こえてきて、そのまま「融」の舞台となる。客席はほぼ満席(中正面奥に若干の補助席が出ていたかも知れない)、外は今年の夏の異常な高温で、連日の「猛暑日」で空気が体温近くまで熱せられているのだが、能楽堂の中はうって変わって、行き届いた空調で、客席に長時間坐っただけだと、肌寒さを覚えるかもしれないくらい。それでも、ライトに照らされた舞台は、演者にとっては過酷な暑さに違いなく、実際に狂言が終わったあと、後見が舞台に落ちた汗を拭った程。一方では客席には毛布が配られて、配慮の行き届いた公演と感じられた。

いつもの通り、地謡は客席の大きさもあって長島さんを地頭とする若手(もう中堅と呼ぶべきかもしれないが)6人。こちれも若手による囃子方ともども空間一杯に音を響かせるが、舞台との距離もあり、(恐らくは演者にとってはそれに応じた工夫をされていると想像される)橋掛かりの短さもあって、正面後方からも橋掛かりでの謡がはっきりと聞き取れ、囃子と交差しても聴き取れなくなることはない。謡や仕舞を御自分もされるような方や研究者であれば詞章を諳んじておられるだろうが、そうではない私のような万年初心者には、その場で詞章がはっきり聴き取れるのは大変に有難く、最初に述べた前場のリアリティにも与っていたに違いない。

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舞台の近さはまた、特に正先にシテが出たときの存在感、その身体に篭められた気が見所に直接伝わる迫力をもたらす。それが能の伝統的な拝見の仕方からしてどうなのかは詳らかにしないが、例えば前場の名所教えの部分では、あたかも自分がワキツレになったかのような心持で、シテやワキの見やる方向を一緒に眺めるといった感じになる。実際には、かつて六条河原院があった現実の場所に行っても(後世、河原院を模して作られたとされる捗成園があり、河原町、本塩竃町という地名が残り、河原町通の東、高瀬川沿いには河原院跡の立て札が立てられていはするけれど)、今見える景色は当然、同一のものではありえない。だが見所の私が、潮汲みの翁と諸国一見の僧とともに見る風景は、「ありえたかもしれない」「かつて」の河原院からの風景なのである。今でも見ることのできるであろう音羽山から始まって、南に転じて稲荷山、深草山、伏見、西に転じて大原、小塩の山といった地名もそうだし、能が演じられている間、それを拝見している我々がいる河原院跡の風景もまたそうであろう。

だが、では「かつて」とはそもそも何時の事なのか?作品が作られた世阿弥の時代の河原院跡なのか?それともそこを訪れた僧が、融の霊である潮汲みの翁に導かれて幻視する、その当時を基準にしても既に「かつて」のものであった、融が生きていた時代のそれなのか?いや、推敲の故事を踏まえて描き出されるその池の風景は、或は先ほど響いていたのではと思い当たる門を叩く音は、現実の出来事であるというよりは、世阿弥が編み上げた仮想の空間でのそれ、「芸術」のみが産み出すことのできる「ありえたかもしれない」風景ではないのか?

勿論、それを現実に舞台の上に現出させるのは、シテを始めとする演者の技量である。何もない舞台で、装束と面と潮汲み桶の小道具による仮装のみによって、そこに潮汲みの翁が現われ、しかもその存在感は詞章の進行に応じて微妙に濃淡を変える。それに応じて現われては消えていく幾つもの時空を異にする世界を自在に行き来することを可能にするその力は、テクノロジーに支えられた今日の仮想現実に遜色ないどころか、専ら知覚や感覚を騙す技術に依拠するそれよりも、人間の備えている想像力のポテンシャルを汲み尽すという点で勝っているとさえ言えるのではなかろうか。

だが、勿論、作品の出来、演者の技量はあれど、それらは能の作品一般に言えることだろうことは、数々の名作を香川さんの舞台で拝見してきた経験から断言できることであって、冒頭に述べた印象は、それに加えて、この「融」という作品が持っている性格によるものなのではないかと思う。

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源融というのは実在の人物ではあるが、この作品の典拠になっているのは、一つには作品の舞台となった河原院の造営の故事であり、もう一つはその没後に起きた怪異に関する伝承のようだ。後者は例えば「江談抄」、あるいは「古事談」「今昔物語」に収められているが、それ自体が能のプロットにできそうな話であり、実際に、観阿弥作とも言われる古作の能は、寧ろそちらに近いらしい。荒廃した河原院を訪れた僧といえば、有名な「八重葎」の歌を詠んだ恵慶がいるが、同じく定家により選ばれた「陸奥の…」の歌が、遡及的に怪異譚を生み出すのに影響があったという見方はできないだろうか?だが世阿弥作の現行曲は、河原院造営の故事拠りつつ、後者については、既に荒廃している河原院を訪れた僧の前に融の霊が出現するという構造のみを借りているようであるけれど、前場がピークに差し掛かったところで、突然手を打って、何かに思い当たって我に還るところ、あるいは後場での名乗りには、怪異譚の翳が差しているという解釈も可能だろうが、舞台の印象は、寧ろ、今日の感覚からすれば権力者の道楽といった醒めた見方も可能な程の、或はそこに執念を感じ取ることさえできそうな、異郷の風景をこの場に再現しようとする思いの強さが勝っているようだ。膨大な人手をかけて、かなりの距離のある難波からわざわざ潮を運び、それを使って自邸で塩を焼いたという伝承は、今日的には、これまたヴァーチャル・リアリティの試みでなくてなんであろう。そして仮装現実の維持は、それが規模の大きな、徹底したものであればあるほど大きなコストを要することになる。恵慶がそうであるように、ワキの僧もまた、そうした夢の跡の廃墟を目の当たりにすることになる。

そしてその廃墟に、一時だけかつての仮想現実を甦らせるのは、今度は言葉の力、芸術の力なのだ。そしてそれは河原院という場所さえ離れて、数百年の年月の隔たりを超えて、何もない能舞台の上に、ありえたかもしれない現実の様々な相を現出させる。冷静に観れば、少なくとも前場は、僧が訪れた現実の河原院の廃墟の中で物語が進行していることになるのだが、見所が舞台上に見る風景は、それに留まらない。空間と時間が常とは異なる仕方で繋がっている、特殊な時空を経験することになる。現在の河原院辺りの風景を確認しようとすれば、今や現地を訪れなくてもGoogle Street Viewのようなツールを介して、仮想的に諸国を一見することが可能になっている。だが、舞台で繰り広げられている時空は、そうした現実の劣化したコピーではない。人間の持つ想像力の限りを尽した、「ありえたかもしれない」、だが現実にはどこにもない、「極東の架空の島」の或る場所がそこに現出しているのではなかろうか。

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そんなものは幻に過ぎない、実は存在しないのだ、と言うだろうか?だが、近年の研究によれば、生々しい現実感を伴う「現実」の知覚の「感じ」は、実際には情報処理の結果、編集されて、あたかもそうであるように思いこまされているに過ぎない、ということがわかってきている。それをもって「現実」そのものを虚構、幻想と見做す消去主義的な立場もあるが、私見ではそれはクオリアは存在しないとする立場と同様、不毛なものに感じられる。それは言ってみれば、向こう側にしか存在しない判断基準がこちら側にないことを根拠に、区別自体をないものと見做す誤謬に基づくものであり、一見して先入観や臆見を批判しているようでいて、実際には、そうすることにより自分だけは特権的な立場にいると思い込む夜郎自大に過ぎない。かてて加えて、もし手前に区別すべき多様な存在の様態があるのであれば、非実在のもとにそれらを葬るのではなく、それらについての存在論を編み上げるべきなのだと思われてならない。観能の感想を超えてしまうので、ここでは目配せをするに留めるが、例えばネルソン・グッドマン的な意味での「世界の制作」として「芸術」を考えることから折り返すようなアプローチが考えられるだろう。「心」そのものではなく、「心」が作り出す「作品」(マーラー風には、それはまさに「世界」の制作に他ならない)を通して「心」と「現実」とに接近することができるのではないか。

ある哲学者は、テクノロジーの発達により将来可能になるとされる人間のサイボーグ化に関して、実は人間はもともと、言語を獲得し、文字を獲得し、アーカイブを外部に蓄積することを始めた時からサイボーグのようなものであり、その身体は生物学的な身体を超えた広がりを持っているし、その心は決して生物個体の中に閉じ込められているわけでもないという主張をしているが、もしそうであれば、それを実感するために、何も最新のテクノロジーなど必要としない筈である。そして実際に、この日に演じられた「融」の能は、まさにそのことを実感させるような強さと深さを持ったものであったと私には感じられた。そして同時に、人を欺く技術としてのヴァーチャル・リアリティーではなく(融が河原院造営で目指したのは、一見そのように見えたとしても、そういうことではなかった筈であるし、少なくとも、それをこの不朽の名作に作品化した世阿弥の意図は別にあった筈だ)、ヴァーチャリティーに向けて開かれた人間の想像力と創造力こそが解き明かすべき領域なのではないか、というようなことを演能の記憶を反芻しつつ思わずにはいられない。少なくとも演能が開示した世界の豊かさと広がりは、私のような人間には到底汲み尽くし得ないような程のものなのだ。同じ作品の同じシテの演能も、時を隔て、場所を違えれば、都度新しく、より深く、広がりあるものとなることにも素直に圧倒されざるを得ない。だがそもそも、実は私の能力のせいで、これだけの豊かさを一度で汲みつくすことはできないのではないかという気もする。それほどまでに細部の隅々にわたるまで気の行き届いた世界は、卑小な自分が住まっていると思い為している現実で完結しているわけでは決してなく、「私」を超えて無限に広がっていて、それは原理的に「私」には汲み尽せないのだ。些か抽象的な言い方になるが、この日の観能が私に語ることを要約すれば、行き着くのはそうした認識のように思われる。(2018年8月25日公開)

2018年4月29日日曜日

「第14回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成30年4月1日)


「第14回香川靖嗣の會」
能「桜川」

シテ・香川靖嗣
子方・内田利成
ワキ・宝生欣哉
ワキツレ・則久英志
ワキツレ・野口琢弘
ワキツレ・大日方寛
後見・塩津哲生・中村邦生
笛・一噌幸弘
小鼓・成田達志
大鼓・國川純
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・粟谷明生・長島茂・内田成信・友枝雄人・金子敬一郎・大島輝久

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今年の桜は早かった。既に彼岸過ぎには満開で、4月になると間もなくあっという間に散ってしまう。 毎年の春の恒例の「香川靖嗣の會」の今年の番組は「桜川」、恰も予めそれを見越したかのように4月1日の日曜日に 開催され、目黒駅から能楽堂までの道の途中にある満開の桜が早くも散りつつある中を往復しての観能となった。

私事になるが、実はこの回に先立つ第13回、昨年秋の「山姥」の演能は拝見できなかった。初回より欠かさず拝見して きたけれど、途切れる時には誠にあっけない。昨年は春にも、それまでしばらく欠かさず訪れていた さるオーケストラの定期演奏会、しかもプログラムに作品の紹介文を寄稿までした演奏会に行けなかった。 取るに足らないことと言ってしまえばそうなのかも知れないが、年に何度も能楽堂やコンサートホールに足を運ぶ 人にとってのそれと、私のように極限られた機会にしか訪れない人間にとっては重みが異なる。

そして今回「桜川」も、舞台を拝見できるかどうか前日まで予断を許さなかったのであるし、当日も拝見したのは 「桜川」一番のみ。番組では後に続いた狂言も、仕舞「熊坂」は拝見を断念して能楽堂を後にした。 「桜川」の前日の夜は件のオーケストラの今年の演奏会だったのだが、これもキャンセル。そうした中、 同行者の歩行を気遣いながらの往復となれば、桜の景色も同じものではありえない。そして当然、そうした心理は 観能にも翳を落さずにはいない。

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この日の番組は、それまでの十数回と番組の構成が異なって、冒頭恒例の馬場先生のお話はなく、いきなり 能が始まった。その代わりということであろうか、会場で配られたブログラムには馬場先生が寄稿しておられる。 観能の回数が限られる私にとって、演能の時空は、それを囲繞する日常のそれとの間に或る種の不連続面を 持っていて、これまでは馬場先生のお話を拝聴しつつ、その断層を横断していたことを思い起こさずにはいられない。 これもまた演能の内容のみに専念する方にとっては瑣末ということになろうが、口開けにワキツレの人商人が現れて 事情を述べるのが、まるで舞台と現実とのあわいでのことのようで、幕が上り、シテが橋掛りに 現れると漸く風景が見えてくるように感じられる。

これは後から気付いたことなのだが、この曲にはいわゆる道行がない。 勿論、ワキの僧と子方の桜子の寺から桜川への道行がないわけではないのだが、 物狂のシテの方は桜川に既に先に到着しているのだ。桜川は実在の地名のようだが、近隣さえ訪れたことのない私には、 それは寧ろ演能により舞台上に浮かび上がる想像上の場所、再会のための特異点のようなものに感じられる。 もしかしたら、現実に過去に数多起きたであろう類似の出来事のどれとも同じではない、ありえたかも知れない 風景なのではないか。まるで夢の中で訪れた場所のように、時として現実以上に生々しいクオリアに満たされながら、 現実の中には場所を持たないユートピア(非-場所)での出来事のようだ。

勿論シテは自分で筑紫からの道行があったことを語るが、その道程をその場で再現するわけではない。 寧ろそれはこの場に木花開耶姫を呼び出すためであるかのようだ。 世阿弥の手になるらしい、シテや地謡が紡ぎ出す詞章の絢爛さが、或はまた、いわゆる「網之段」を核とする シテの所作の鮮やかさが、現実にはありえない程の舞う桜の散乱で舞台を埋め尽くし、 見所まで香りが届くかの如き心地である。 現実にはこれほどの桜が散れば、もはや枝には桜がなさそうなものだが、あろうことか、 枝は尚一面の桜花に埋め尽くされている、まるでそうした場でなくては再会は生じないのだと いうばかりに、、、

*   *   *

「桜川」を拝見するのは二度目、20年も前、能を見始めて間もなくの頃に、珍しく他流での上演で拝見したそれは、 駘蕩としつつどこか鄙びた、仄かに明るい風景を見せてくれたという印象のみが残っていたのだが、 今回のそれは寧ろ、「再会」の奇跡が起きるとしたら、その瞬間はどのようなものでありうるかというのを 舞台の上に示したものに感じられた。聊か突飛な連想であることを承知で言えば、「我が子の花は何故咲かないのか?」 という嘆きに接して、例えば曾我物語の或るバージョンにおいて、その結末で年老いた虎御前が自らも空しくなる直前、 咲き誇る夜桜の枝に十郎の姿を見るというくだりがあるのをふと思い浮かべたりもしたのである。 勿論「桜川」は現在能であって、再会は現実のことなのではあるけれど、単なる再会の物語であることを超えて、 それはどこか神話的な非現実感を思わせる点で、寧ろ夢幻能に近い感覚さえ覚えた。物狂というのもまた、 そうした「再会」に至るための心的変容のプロセスとして考えることができるのではなかろうか。

思い起こせば一年前には、同様の状況で、全く異なる残酷な現実を直視した元雅の能「隅田川」を拝見したのだった。 世阿弥作とされる「桜川」と元雅の「隅田川」との対比はあまりにも鮮烈で、更には「桜川」における些か作為の過ぎた状況設定もあって、 それを単なる人情話的な現在能として受容することはできない。自己を喪い、自己の背後から呼び掛ける声(それは 自己の下で常には抑圧されている深層意識と見做してもいいし、より単純に、ジュリアン・ジェインズの二分心の 仮説において、そのように考えられているように、意識の成立以前の心の構造の残滓たる「隠れたる神の声」と 見做すこともできよう。或はまた、膨大な歌の引用がもたらす他者達の声の交響を見るべきなのかも知れない) に応じる「物狂」の果にしか「救い」はないのだという認識こそが示されているようにさえ思われたのであった。世阿弥が巧妙に仕組んだ詞章の織り成す世界は、そのまま「物狂」を通して見る「現実」に外ならず、だが無色透明な現実というのはそもそもありえず、人は皆、自分が埋め込まれた脈絡の厚みを通して、自分の「現実」に向き合う外なく、「物狂」というのはベイトソンの言う「無意識のエクササイズ」に他ならない、といったことが心を去来する。

そう思えば「桜川」という能は実に演じるに厄介な作品であるに違いない。 心理的な掘り下げとか解釈のような賢しらさは却って作品の姿をわかりにくくする危険さえあるのではないか。 寧ろ端的な謡や所作への没入こそが相応しいようにさえ感じられる。 勿論、それを可能にするのは長年の渉る修練がもたらす芸の蓄積の力に違いなく、それゆえ今回の上演は、 まさに作品そのものを「あるべきように」開示する稀有な出来事であったに違いない。

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上述のような繰言は、それ自体が賢しらな後知恵ではないかという反論があるかも知れない。 だがそれに対して私は、冒頭記したような状況での観能となった今回、このような優れた演能に接することが、 同行者にとってどんなにか大きな「慰め」となり、「癒し」となったかという事実を以て応えることができる。 比喩的に「慰め」「癒し」という言葉を使うのは容易いが、比喩としてではなく現実の出来事として それを体験するのは、それがささやかな日常の一部を構成するに過ぎないとしても、常ならば大げさな誇張としてしか受け取られない「救い」という言葉を使うに相応しい稀有な出来事ではないか。

10年以上、14回にも及ぶ蓄積の仮想的な断面を見ることができるとしたら、例えば、忘れもしない東日本大震災の直後の「朝長」のような「出来事」もあったけれど、今回は私的でささやかな、見所の座席のもう一つ隣には共有されえない、だけれども当人たちにとってはかけがえのない、しかも紛れもない「現実」の「出来事」であり、それゆえに外出が叶わず、常の年ならば決まって訪れた桜並木を訪れることが叶わなかった人間にとって、この上ない経験であったのだ。 そうした現実的な力を備えた経験を可能とした、香川さんを始めとする演者および企画に携わられた方々に 心から御礼を申上げて、結びの言葉としたい。
(2018.4.29暫定公開、5.3補筆修正)

2017年4月20日木曜日

「第12回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成29年4月1日)


「第12回香川靖嗣の會」
能「隅田川」

シテ・香川靖嗣
子方・大島伊織
ワキ・宝生欣哉
ワキツレ・御厨誠吾
後見・塩津哲生・中村邦生
笛・一噌幸弘
小鼓・曽和正博
大鼓・國川純
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・粟谷明生・長島茂・友枝雄人・金子敬一郎・大島輝久・佐々木多門

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4月の第1週の週末に催される「香川靖嗣の會」を拝見するようになってから、もう10年以上にもなることにふと気づいた。 昨年からは秋にも開催されることになったので、今回が12回目。初回の「絵馬 女体」を拝見して以来、 幸いなことに1回も欠かさず拝見することが叶って、今回は「隅田川」。 年毎に春の訪れのありようは微妙に異なって、今年は雨が今にも降りそうな気配の曇天。 綻び始めたまま、陽射しを待って歩みを緩めた桜の下、聊か沈鬱な風景の中を目黒の舞台を訪れるのは、 番組に如何にも相応しいように感じられる。

冒頭記した感慨は、それが恰も年中行事のように、すっかり習慣となっているが故に他ならないのだが、身辺の慌ただしさは徒然に移ろっても、まるで季節の循環の一部であるかのように演能を拝見できることが どんなに有難いことか、回数を重ねるにつれて、身に沁みて感じられる。世間一般には能は音楽劇の一種であり、 能楽鑑賞は趣味娯楽と見做されるであろうけれども、近年は多くても年に数回、もっぱら香川さんの演能のみを拝見する ばかりである私にとっては、それは寧ろ、季節の循環や暦日に従って毎年繰り返される宗教的な祭祀や儀礼に 近しいものと感じられる。勿論、こうした感じ方には、能楽そのものが今なお喪うことなく保持し続けている奉納的な性格、 そしてそうした性格と不可分の、観る者の奥深く、無意識の領域に迄働きかける力が与かっているのだろう。 そしてまた、これまでも拝見する度に、自分が経験している演能が、自分の容量を遥かに超えた豊かさと深さを備えていることを感じ、 辛うじて受け止めたものさえも、それを言語化することの困難を味わって来たが、今回は「隅田川」という作品の性質も相俟って、 それが極まった感があることを、帰路、迫る夕闇の中で更に深く憂いに沈むかのような桜の下を通りつつ感じずにはいられなかった。

恒例の番組の冒頭のお話の中で馬場さんは、ご自分が最初に御覧になった能が「隅田川」であったことを披露され、 初めて観る人にも、何十回と観ている人にも、それぞれ相応のものを与える能楽の奥深さについてお話されたのだったが、 私はと言えば上述のような次第で、「隅田川」を拝見するのはようやく二度目、もう十年も前になる前回の観能の経験を 今回のものと突き合わせて何事か論ずるだけの知識もなく、自分が辛うじて受け止め得たもの、その場で生じた出来事から すれば次元も解像度もお話にならない程縮退した、色褪せた残像に過ぎないものを記すのが精一杯である。 幾つもの場面、所作が、その時に感じた強い情緒的な反応もろとも、つい先ほど拝見したばかりかのように克明に 思い出されるのだが、それを記述しようと試みたところで到底、観たものに到達することはできそうにない。いつものことでは あるが、シテは勿論、子方も、ワキもワキツレも、囃子方も地謡も、更には後見に到るまで、全く弛緩することなく 全曲が演じられ、その完成度は、それが舞台で行われているフィクションであることを忘れてしまう程の圧倒的な上演であったことのみ記して、 具体的な細部については、それを能くする知識と経験をお持ちの方の評に委ねることとし、ここでは専ら、 自分が感じたこと考えたことのみを記すことにしたい。

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「隅田川」を前回拝見した時に感じたのは、元雅の手になるこの作品が、世阿弥的な能の形式をに巧妙にずらし、 顛倒させ、尚且つ能としての本質を損なわないばかりか、その組み換えによって作品に比類ない力と、全くオリジナルな深みとをもたらすことに 成功しているように思われるということであった。それはいわゆる複式夢幻能と呼ばれる形式を典型として思い浮かべつつ この作品に接すれば誰もが直ぐに気付くことであろうし、他方でそこから逸脱した作品は幾らでもあって、 その逸脱の力学は様々であるのだが、ことこの作品においてはそこに作者の元雅の明確な主張があり、彼の意図と密接な 関係にあるように思われたのである。

この作品は、分類すれば物狂いがシテである現在能ということになるのだろうが、 物狂いや道行を見せることに焦点があるわけではなく、それらは物語の背景を形成するに過ぎない。 あまりに有名な、業平の故事を踏まえた都鳥を巡っての遣り取りは、これも複式夢幻能の前場に多い、 所謂名所教えを踏まえてはいても、看過できない捻りが加えられていて、問うのはシテであり、しかもワキは シテに対して適切に応えることができずにシテに咎められるといった具合になっている。まだ挙げれば幾つも 指摘はできようが、このような組み換えの最大のポイントはと言えば、物狂いの能の定型である、約束されていた筈の 再会がここでは失敗し、結果として物語が強い悲劇性を帯びる点にあるのはよく指摘される点である。

馬場さんは初めて「隅田川」をご覧になった折、ワキの装束が渡し守としては不相応に立派に過ぎることを 不思議に感じたとのことだが、私が気になったのは、この作品には前場と後場を繋いで物語の経緯を説明するアイがおらず、 ワキがその役割を果たしているように感じられる点であった。 通常なら諸国一見の僧であるワキが道行を経て物語の起きる場所に辿り着くと、 それを待ち受けているかのようにシテが出現するのだが、ここではそれも逆転し、到着するのはシテの方である。 その後、シテとワキツレを乗せたワキの渡り守が隅田川を渡すことが、前場と後場を繋ぐ道行の代補となり、 その渡しの最中に、ワキが丁度その日に行われる念仏供養の由縁となった1年前の出来事を物語ることで 物語の背景が解き明かされるから、アイの登場する余地は残されていない。 常にはワキの同行者であるワキツレもまた、別の役割を与えられており、限られた語りの中で、いわば「第三の視線」として、 一見したところ不在となった本来のワキの位置にいるようでいて、寧ろ見所の代表のような役割を果たすように感じられる。

プロットから独立した舞事がないことと相俟って、そうした組み換えによって弛緩なく自然に物語の運びが実現されており、 その感触は寧ろ「現代的」な演劇に通じるものがあるといって良いように感じられる。勿論「現代的」というのは 己の属する時代の束縛を受けた都度都度の受容者側の認識であって、恐らくは寧ろ時代を超えた普遍性を備えていると いうべきなのだろう。それゆえまた、その「現代性」をもって元雅という人の天才を論じるのは片手落ちな見方に過ぎず、寧ろ そこに見るべきは、そこに込められた元雅の思いの深さなのだ、ということに気づいたのは、これは前回ではなく、 今回の演能に接してであった。

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とはいえ、上述のようなことを演能を拝見しながら考えたというわけではない。寧ろその場でまず思い当たったのは、 上述の役割をずらしていくプロセスの帰結として、不在となるシテの位置を埋めるのが、 実は子方の梅若の霊なのだという点である。のみならず、それが私が前回拝見した時に不思議に思ったもう一つの点、 即ち供養される側である筈の子方が自ら念仏を唱えて出現することとどこかで釣り合っているのだ、ということにも同時に 思い当たったのだった。それは例えば世阿弥の夢幻能であれば曖昧さ無くシテとワキに分配される、救済されるものと救済するものと の間の関係に揺らぎが生じているということなのだが、今回の演能を拝見して感じたのは、それが元雅の意図と一致し、 作劇法とも一致した一貫性のあるものだということであり、しかもそれは強い必然性を帯びているとさえ感じられたのであった。

かくして現在能の形式を取りながら、その中で夢幻能におけるが如く霊を出現させることで、祭祀的・宗教的な 性格を強く帯びるようになるばかりではなく、夢幻能では供養によってシテが成仏するプロセスに 焦点があるのに対して、ここでは視点の反転が起きていて、供養によって救済されるのは、寧ろ供養する側であることが 示唆されているように思われるのだ。そしてそれが元雅が企図したことであり、「人間憂いの花盛り」という認識から その憂いの最中にいる側が供養によって救いを得るということに正確に見合っていることに思い当たることになる。 そしてそれは単に物語の世界の論理に留まらず、恐らくは演能する者、更にはその演能を拝見する見所にまで及んでいるのでは なかろうか。

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このように書くと、如何にも分析的な見方をしているように 思われるが、これはその場で気づいたことを理屈で跡づけて見たに過ぎない。 実際、今回感じたのは、観る者を巻き込み、舞台の上で演じられているという虚構性を思わず忘れさせ、 時空を超えて供養に自らも立ち会っているかのような迫真性で心の奥底まで突き動かす、 その力の凄まじいばかりの大きさであった。勿論それもまた能楽というジャンルの持つ奥深さの現われなのだろうが、だからといってこの日に経験したようなことがいつも無条件で起きる訳ではなかろう。ひとつには上で自分が気づいた範囲でその特徴を記述した「隅田川」という作品の力があり、そしてもちろん、シテ、子方、ワキ方、囃子方、地謡から後見に到るまで、開曲から終演に到るまで全く弛緩することなく、まるで自己触媒反応を起こすが如く、相互に触発し合うことで達成された最高度の上演によってのみ実現されるものに違いない。舞台の上で起きている出来事が虚構であることを忘れ、自らも供養の 参加者であり、涙を堪えようとすれば、時折視線を逸らさなくてはならない程にまで 眼前で起きている出来事に烈しく心を揺すぶられるような経験であった。

そして自らも供養の参加者であるということは、まさに梅若の姿の目撃者であるということに他ならない。 梅若の姿は、シテの個人的な幻覚などではない。彼女に同情して供養に参加したワキやワキツレもまた、 その姿を見たに違いない。そして見所もまた、その目撃者となることを元雅は意図したのではないか。 この日の舞台は、作者元雅が意図した通りの、子方を出す演出であったが、「申楽談義」にて父世阿弥と 子方を出すことの是非について議論した際に、子方を出さない演出を提案する世阿弥に対し、 元雅が「えすまじき」と言ったその意図と心情とが圧倒的な深さ、説得力をもって伝わってきたと感じた。 元雅は是が非でも梅若を登場させたかったし、その気持ちは、作品の論理として貫徹されている、 そしてそれを今回の上演は揺るぎなく闡明した、と思われたのである。

実際、この日の舞台を観た者は恐らく皆、これで梅若が現れないとしたら、それはあまりに残酷に過ぎて耐え難いと 思われたに違いない。そして梅若の霊が現れたことを自らも確認し、供養がもたらした奇跡に安堵し、深いカタルシスを感じたのではなかろうか。 少なくも私はそう感じ、念仏をする子方の声が響いた時に供養の功徳が成就したと感じ、 剰えそうであることを「必然」とさえ感じたのである。ただしここでいう「必然」とは現実の世界の因果の謂いではない。 現実の世界ではその論理は完遂し難く、寧ろ脆く崩れ去ってしまう不可能なものであろう。だがそうであるからこそ、 その論理が完遂するような場が、虚構としてであれ、現実の中で実現することを願わずにはいられないのではないか。少なくとも元雅は、 冷徹な現実の最中で、そのようなものとして作品を企図せずにはいられなかったのではないか。

(例によってこれは些か突飛な連想と見なされるであろうから注記的に触れておくと、私は子方を出す演出に関して、 仏像というものの在り様のことを考えざるを得なかった。仏像の前で祈ることは、偶像崇拝ではない。祈りは仏像という オブジェ自体に向かうのではなく、仏像を通じて仏を念ずることだろうからである。そして仏像は美術品ではないから、 美的価値のみでそれを評価すべきではないこと、だけれども様々な造像があり、他方で観る者の心持に応じて、 同じ像が異なる姿を現すこと、更にはしばしば祈りの対象である筈の仏(像)がそれ自体祈っている姿に造像されること、 そうしたことをこの演能を拝見して思い起こさずにはいられなかった。更にはそれらは総じて、能を演ずること、 それを拝見することと通じているように思われてならないのである。否、能ばかりではなく、 それは芸術一般に通じるのかも知れない。序でに言えば、「隅田川」の称名は阿弥陀仏に対してであるけれど、 その阿弥陀の脇侍である観世音菩薩が相手に応じて様々な姿に変じて現れることも思ったし、更に音を観ずるという、 今日的には共感覚を思わせるようなあり方が、とりわけこの日の演能においては、一つには称名の声と梅若の出現という 「隅田川」という作品のあり方に、だがそれに加えてこの日の、まさに音を観、姿を聴くといった理想的な演能のあり方に通じているのではないかと 思い至ったのである。精緻に論じるだけの知識もなければ、確信を以て読み手を説得するだけの経験の裏付けもない私は、 寧ろ、この日の演能を経験することによって、こうした認識の門前にようやく立てたに過ぎず、それ故、括弧入れした 形で触れるのが精一杯であるが、このことに一言触れておかずにはいられず、追記した次第である。)

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馬場さんがこの作品の中核を示す詞として取り上げられた「人間憂いの花盛り」という詞は「生死長夜の月の影、 不定の雲覆へり」と続き、実際には月の光の下で念仏供養が行われるのだが、その光は、 例えば「伯母捨」がそうであったような荘厳な光の氾濫には程遠く、ともすれば朧に霞み勝ちのように思われる。 そうした薄闇の中、1年遅れて辿り着いた母の前に既に亡き子供が現れるのだ。 それは時間にすればほんの一時のことに過ぎず、互に手をとりかわそうと近付くと、その姿は儚くも消えてしまう。 だが、それが一瞬のことであったにせよ、念仏供養の声が、打ち鳴らされる鉦の音が、 梅若の霊を呼び起こし、出現させたという事実は残る。母親は確かに梅若の声を聴くのみならず、その姿を見たのだし、 そのことを供養に参加したワキやワキツレも見たに違いなく、母と共に彼らがこの供養の功徳を後世に伝えていったに 違いないのである。否、そこで梅若の姿を見、梅若の出現の必然を証言するのは、物語の世界の内側の登場人物だけでは ないのではないか。その優れた演奏により出現を必然のものとして可能にした演者の全て、見所の全てもひっくるめて そうなのではないか。「人間憂いの花盛り」を我が事と感じたのは、演能の場にいた全員であったのではないか。 演じられる虚構と演じる現実の区別は、常には裁然たるものであるし、例えば演能を批評するため にはその区別は前提であろうが、私はことこの日の演能に関しては、その区別が乗り越えられ、廃棄されてしまったが 故に可能となった経験の側につきたいと思うのである。

梅若が舞台の上に一瞬だけ出現し、母の姿と交錯するが早いか塚の中に消えてゆくことによって、その後のキリの 風景は意味合いを全く変えてしまうかのように思われる。夜明けの光の中に見えるのは現実には草生した塚だけであろう。 梅若が蘇生するような奇跡、あるいは梅若が1年前に世を去るのとは異なった因果の成り行きは我々の生きる この世界の現実には用意されていないのだ。そうしたこの現実の世界とは異なった秩序が支配する世界と 一瞬だけ触れ合った後のキリの風景は異様である。梅若は決して蘇りはしなかった。 だが梅若の姿は供養を共にした者達にとって、紛れもない現実であった。勿論それは客観的には、せいぜいが 共同幻想として片づけられてしまうのかも知れない。だがそれを幻想と呼ぶにせよ、今ひとつの現実と捉えるにせよ、 そうした機序を乞い求める現実は紛れもなく存在する。しかもそれは「隅田川」の能の舞台となった中世に固有の事情などではない。まさに能が演じられる今、ここの現実においても状況は変わるところがない。そうした現実と日々対峙しなくてはならない 「憂いの花盛り」に居る人間とは、今ここで演能を拝見する自分達のことではないのか。

夜が明けて、演能も果てて、作品の外側の現実が戻ってくる筈の終演のひととき、作品の内外のあわいを歩むかのように 橋掛かりを通って舞台を去るシテの姿に、上述のような体験を経た見所は何を見ただろうか?能を観ることにより 自分の内側に侵入してきた何物かに浸されたまま、自分もまた同じように能楽堂を去っていく他ない。だが、その後に 来るものは、観る前と同じ現実である筈はない。供養の功徳により梅若の姿を一瞬でも観ることが叶った母は、 (梅若伝説のあるバージョンの伝えるところとは異なるが)身を投げて果てるようなことはなかったのではないか。 見所もまた「憂いの花盛り」の現実に戻っても、同じ風景を見てもどこかが違う。それを言い当てることなど 到底できないけれど、或はまた他人が見ても一見して違いがわからなくとも、自分の奥底に何かが降りてきて、 それにより何かが変わったように思えてならない。いや寧ろそれは予感に近いもの、変わっていくポテンシャルを 獲得した、否、もっとささやかにその契機を得たに過ぎないかも知れない。一般にはモダンで悲劇性の強い作品と 呼ばれる作品を拝見して、だが私が拝見し終えて感じたのは、救いのない現実に対する絶望ではなく、寧ろ ベクトルとして逆を向いたものであるように感じている。勿論これは、私だけの主観的な感じ方かも知れない。 例えば、(とはいえ、これは思いつきで持ち出すのではなく、あの終演の感じに似たものとして、終演の折、 自分の中から浮かび上がってきたものなのだが)マーラーの第9交響曲の終曲のアダージョを聴いて、 そこに何を読み取るのかは人それぞれなのと同じことかも知れない。自作の「子供の死の歌」の引用をはじめとする 断片がきれぎれに白んでいく空に漂うのが見え、夜明けの風景が聴こえるそのコーダは、主体が揮発して 空と化する地点を示していながら、しばしば解説として見かける「死のアレゴリー」という言い方には 大きな誤解が潜んでいるように思われて、到底首肯できないのだが、それを同じようなことを私は ここでも感じたのである。

更に、これは是非とも付け加えて置きたいのだが、これまで記してきた、私の中に湧き上がってきた思念や認識が、後から想起しても尚、生々しく蘇る光景の凄まじさ、リアリティに根差したものであることに気付いてみると、この日の演能が如何に素晴らしいものであったかに思い当たるのである。例えば、上に記したキリの風景にしても、私は塚の作り物が置かれた能舞台を見所から眺めていたに過ぎないというのが客観的な現実の筈である。基層の響きのように確かに聞こえていた筈の川の流れる音、水辺の空気の持つ匂い、刻々と変わる光の調子、それらは全て、シテの所作が生み出したものなのだという事実を前に、私は絶句せざるを得ない。そもそも私は現実の梅若塚を訪れたことがないのである。勿論それは、これまでも記してきたように、香川さんの演能の度に、見方によってはごく当たり前のように起きていることなのだけれども、そもそもそれがごく当たり前に起きるということ自体、如何に稀有で、当たり前などとは言えないことであるか。

私は梅若の供養の場に自分もまた本当にいて、その一部始終をこの目で見て、それを証言しているとどこかで思ってしまっていて、そう思う方が自然であることに気づいて、絶句せざるを得ない。まだ年若く、しかも鄙びた周囲の風景にそぐわない雰囲気を漂わせている物狂いの女が、渡し守に向かって彼方の鳥の名を問うた時に、自分もまた、川辺に遠く、都鳥を確かに見たと、或は、渡し守にが自分が一年前に儚くなった少年の物語をして聞かせた物狂いの女性が、その子の母と知った時の「言語道断」という詞の響きを、その時の母親の表情ともども、自分もまたその場に居合わせて我が事のように受け止めたと、更にはまた、母親が鳴らす鉦が響き、称名の声が交響する中に、ひと際高く、子供の声が混じった時の母親の表情を、そしてその直後の「なうなう今の念仏の声は、、、」と問う母の詞の持つ、形容しつくせぬ響きを、その場で聴いたとしか思えないのである。否、こうして書き始めれば、果てがない、ないからこそ、最初に具体的な細部については書かないと宣言した筈ではなかったか、、、

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如何なる言葉を尽しても到底及びもつかないような経験というものがある。単に自分の言語的な能力が、 その深みや質に及ばす、それに見合った仕方で表現することが困難であるというのではなく、 寧ろ原理的に経験を後から言語を媒体として定着させるという方法自体がそぐわないと感じられるような 類の経験というものがある。自分が自分に可能な限り受け止めたものは時間の経過にも関わらず、 まるでつい先程経験したことのように生々しく、克明に想起できるのだけれども、言葉で説明することに 抵抗するような経験というものがある。総じて能というのは、それが優れた演能である場合には、 必ずやそうした側面を幾許か含み持つものであることは、これまでの香川さんの演能を拝見してきて 都度感じてきたことだった。更に加えて、演能が行われる外的な一度限りの状況が、それ故にその演能だけしか 原理的に持ち得ないアウラを付与することもあるだろう。(このように書きながら、私は東日本大震災の直後の「朝長」のことを思い浮かべている。)だが今回の演能に接して感じたのは、それらのいずれとも 異なる質の経験、通常、単なる演劇の鑑賞の場では恐らく不可能な、だけれども能楽では可能な、上演がそのまま儀礼・祭祀と化してしまうかのような経験であった。

「隅田川」の能の典拠である梅若伝説は、それ自体は厳密にはフィクション、虚構ということに なるのかも知れない。現在においても能舞台の外で、梅若塚が実在し、供養が営まれているけれど、 それはある種の転倒の産物であるという見方もできよう。しかもそれは梅若伝説に限った話ではなく、 多くの霊験譚や縁起というのは須らく後付の脚色を伴っていて、そのまま事実と見做すことができないのであろう。 だが、偶々読んでいた白洲正子さんの観音巡礼記にもそうした考えが記されていたように記憶するのだが、 伝説にも、単なる事実だけを見ていたら取りこぼしてしまう「真実」があるに違いないし、 翻って、舞台の上で演じられる供養という点ではもう一レベル虚構の度合いが高い筈の演能に、 逆説的に、現実の供養では時と共に変質して、もしかしたら損なわれ、喪われてしまったかも知れない「真実」の 記憶が、数世紀の長きに亘って保持され続けていて、その一端に触れたという確かな実感を持ったのである。

梅若伝説に因んだ議論の一つに梅若が亡くなったのは隅田川の西岸か東岸か、というものがあるらしい。 だがこの日の演能に接して感じたのは、事実の詮索以上に、それが川辺で起きたというトポスの設定、そして 渡河という行為の持つ象徴的な意味合いの方であった。人はそこに、どうしても三途の川や賽の河原を 重ね合わせずにはいられないし、川というのが結界であり、渡河は疑似的な仮死の経験であって、 供養というものの本質が端的に示されていて、異界である向う岸においてこそ、梅若に再会することが 可能になるというのもごく自然に理解できるように感じられる。

そしてシテである母は一人で渡河するわけではない。有名な渡し守と母とのやり取りでは梅若という名前とともに 彼の命日である3月15日という日付が確認される。梅若の死は既に起きてしまい、取り返しのつかない、 反復不可能な一回性の不可逆な出来事だが、供養という営みは、不可能な反復というアポリアに挑むことによって その日を記念し、記憶する。梅若の死が忘却の河の流れに押し流されることなく記憶されるためには、否、 そもそも幻想であろうとなかろうと、母が梅若との再会を果たすためには、ワキやワキツレに代表される人々が 1年後の3月15日に供養を営まなくてはならなかった。供養を行うのは、梅若の死に遭遇した母親一人ではない。 ワキやワキツレも一緒に向う岸に渡って、共に供養をし、恐らくは共に梅若の姿を垣間見るのである。 少なくとも元雅の論理はそういうものであったに違いない。元雅はそうでなくてはならないと思えばこそ、 子方を出すことにあれ程拘ったに違いない。この日の演能を拝見して私はそれを理屈で納得したというよりは、 そのように悟らされた、それは冷静な分析的な認識ではなく、そうでなくてはならない、という強烈な共感を伴う 直観として私の心を満たしたように思う。

こうしたことは冷静な人から見れば、半可通で能に接している人間の滑稽な思い込みに過ぎないかも知れないが、 それを認めた上で尚、この日の演能が、例え錯覚であったにせよ、そうした直観を惹き起こす力を備えていたという 事実は残るであろう。更に言えば、「隅田川」の能という形式の中で行われる梅若の供養、梅若の母親の供養は、 その背後にある、個別には記憶する者が絶え、忘れ去られてしまった無名の数多の梅若達、梅若の母達の供養でも あるのだし、数世紀に渉り繰り返されてきた「隅田川」の演能を通じ、その都度の見所の供養でもあり、 その一端に自分が連なっているのだという印象を持ったのである。勿論、神事仏事がそうであるように、 記憶の継承にとっては儀礼が反復され、継承されることが第一義的に重要なのだろうが、優れた演能は 単にそうした記憶に事実として与かるだけではなく、自己の関与の持つそうしたパースペクティブへの気づきを与えてくれる ものだとするならば、この日の演奏はそれを私のようなたった二度きり「隅田川」を拝見した人間にすら 可能にした、稀有な達成であったに違いない。そしてそうした気付きに関してならば、 これまでも香川さんの演能を拝見してきて、都度感じてきたことではあるのだが、今回は、 加えて「隅田川」という作品の持つ比類ない力により、個人の寿命のスケールを超えた大きなものに触れることができただけではなく、 更にそれを拝見することで自分がそうした大きなものに与かることが叶ったような感じがする。 このような経験を可能にしてくださった香川さんをはじめとする演者の方々に感謝の気持ちを述べて、 拙い感想の締めくくりとしたい。 (2017.4.20暫定公開, 22加筆修正,27修正)