2003年10月13日月曜日

「平成15年喜多流素謡・仕舞の会」(喜多六平太記念能楽堂・平成15年10月12日)

素謡「玉葛」
シテ・香川靖嗣
ワキ・大村定
地謡・友枝昭世・香川靖嗣・塩津哲生・内田安信・佐々木宗生・大村定・谷大作・佐藤章雄・友枝雄人・粟谷浩之

「玉葛」は能で2回観ているにも関わらず、今ひとつよくわからないと思っていた曲なのだが、やはり、 この演奏を聴いてようやく納得することができたように思える。この曲は、道具立て的には大変に美しく、 前半の紅葉の中を流れる川の風景などは大変に鮮やかなものだが、今回、特に印象的だったのが、 その「流れていく」という感じ、移動と移行の感覚だ。移動が水(川であったり海であったりする)と 結びつくのは自然なのだが、個人的に特に印象深かったのは、風景の中に雨が降り入ってくることに よる移ろいの感覚だ。この移行は(客観的なテキスト分析の立場からどうかは措くとして)観ている私の意識の 中では決定的なものに思えた。これは言葉にするのがとても難しいのだが、あえて言えば、為すすべの無さ、 寄る辺のなさ、流されているうちは眩しかった風景が、どこに辿り着くというわけでもなく、気づいたとき には変容していて、雨の中に立ちつくすしかなくなってしまった、けれども、引き返すことはできないし、 しない、流されていくしかない、という、落胆が混じった諦めのような感覚の表象のように思えたのだ。
上述の通り、私はこの演奏を聴いて、「玉葛」が往生を遂げることができずに苦しんでいる理由がようやく 自分なりに納得できたように感じられたのだが、それがその感覚とどこまで関係あるかどうかはわからない。 演奏が終わった後、私が連想したのは「求塚」だった。勿論、作品の質は全く異なるのだが、あの、選ぶことが できなかったというそれだけの理由で救いを絶たれた菟名日処女と、流れに棹差しているようで、結局は 紅葉もろとも雨に降り込められてしまうしかない玉葛とが、その受動性において重なるような気がしたのだ。 いずれについても仏教的な倫理観に基づくもので、今日的ではない、という考えもあるようだけれども、 私は必ずしもそうは思わない。こういう感じの違和感、寄る辺無さというのは、実はとても深い絶望に つながっているのではないかという気がして、心理的な機序としては自然であるようにすら思えるので。
今回の素謡は大変に説得力があったので、一度是非、香川さんのシテで「玉葛」観てみたい。