2007年6月4日月曜日

「第1回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成19年6月3日)

能「絵馬」女体
シテ・香川靖嗣
前ツレ(姥)・大村定
後ツレ(天女)・内田成信
後ツレ(力神)・塩津哲生
ワキ・宝生欣哉
ワキツレ・大日方寛
ワキツレ・御厨誠吾
アイ(蓬莱島の鬼)・野村扇丞・小笠原匡・山下浩一郎・吉住講・野村万蔵
笛・一噌幸弘
小鼓・大倉源次郎
大鼓・柿原崇志
太鼓・観世元伯
後見・内田安信・中村邦生
地謡・友枝昭世・出雲康雅・粟谷明生・谷大作・長島茂・狩野了一・友枝雄人・金子敬一郎

香川靖嗣さんの能を最初に拝見したのは、川崎能楽堂での「阿漕」だった。 このときの印象の強烈さは、今でもその場面と、それを経験したときの自分の身体的な反応を かなり克明に思い出せるほど圧倒的なものだった。 否、何を隠そう、私がまだまだ年月は浅く、回数も少ないながら、その後欠かさず能を拝見しつづけているのは、 そもそもこの香川さんの演能を拝見したのがきっかけなのである。優れた能が身体と意識の一番奥底まで届いて、 その印象は永続的なものであることをはっきりと認識したのもその時のことであった。
その後も出不精ゆえ数は多くないものの拝見する度に圧倒的な印象を受けてきていて、 その質の高さ、印象の強さでは飛びぬけていて、拝見してがっかりしたことは誇張でも何でもなく、 文字通り皆無である。これは一発勝負の実演としては驚異的なことだと思う。 残念ながら、このところのあわただしさと、一期一会の能ゆえのスケジュール調整の 難しさもあって、最近は拝見する機会を得ずにいたが、このたび個人の会を開始されるという ご案内をいただき、幸いスケジュールの調整もかない、6月3日、改装なった目黒の舞台に 足を運んだ。番組は「絵馬」女体、初めて拝見する曲だが、香川さんなら必ずや素晴らしい ものになるに違いないと思いつつ会場につくと、通路という通路が補助席で埋め尽くされんばかりで 二階席まで満席という盛会であった。

そして演奏もまた、そうした見所に満ちた期待を裏切らない、そればかりか期待をまたもや遥かに凌駕する 素晴らしいものだったと思う。当日一緒に拝見した満席の見所の方々にもご同意いただけると 確信しているが、これは圧倒的な経験だった。 私の貧しい経験でも、かつてやはり香川さんが舞われた「翁」もまたそうだったと記憶しているが、 今回の「脇能」でも神体をシテとする能の凄みとでもいうべきものに圧倒される経験をした。
能の印象を書くのはいつも困難だが、人間ではなく、神様を主題とする脇能の印象を、 その強度に相応しく、ありきたりの形容詞の羅列ではなく書き記すのは不可能事に近い。 それが宗教的な経験に近接することを思えば当然かも知れないが、こういう経験を言語に 翻訳するのはほとんどナンセンスにすら感じられる。以下、できるだけ感じたままに 印象を書きとめておきたい。当日ご一緒されなかった方にすれば、幾らなんでも大げさな、 と思われる表現があるかも知れないが、そうお感じになるのは私の力不足のせいで、 実際の印象はもっともっと豊かで、しかも同時に「自然」というほかないものだった。

この曲は脇能に相応しく、その物語の構造そのものは至ってシンプルなものであるが、 その骨組みの単純さにも関わらず、実はかなり凝った構造をもっていて、 場面転換がそのまま、時間的・空間的な層間の移行のような感じになっている。 それゆえ、囃子と地謡の機能は非常に重要なのだと思うが、幾つもの層よりなる 作品の構造を位取りの変化によって適切に提示する囃子、作品の結節点をなす 決定的な変容のありさまをこれまた的確に表現する地謡によって、最初から最後まで全く弛緩なく、 作品の多様性が明らかにされていく様は驚異の一言であった。
香川さんの老翁は、まずその構えに圧倒される。囃子が告げているように、既にこれは ただの老人ではないという雰囲気に満ちている。ツレである大村さんの姥との呼吸もぴったりで、 まさに一身同体の神の化身に相応しい。
印象に残った場面も枚挙に暇がないが、囃子では、颯爽としたワキの勅使の登場から、 シテ・ワキの老夫婦を呼び出す「真之一声」に切り替わるところの雰囲気の変化の鮮やかさと 「真之一声」の素晴らしさには息を呑んだ。 謡ではとりわけ前場の末尾、自分達が二柱の神であることを明かすところの劇的な変化には 身震いがしたほどで、その後、太鼓を伴う囃子にのって二柱の神が闇に消えてゆく様は、 荘厳の一語に尽きる。太鼓の最初の一撥の響きは忘れがたい。
居グセのあたりからすでに現実的な場所と時間の感覚は麻痺しているのだが、 前場の末尾に至っては具体的な時間も場所も消えうせて、神話的な時間、恐らく 今回のような素晴らしい演能によって、これまでも、そしてこれからも無限に反復されるで あろう「原的な経験」とでも呼ぶしかないような何かに立ち会っているように感じられた。

普通とは違ってこれまた囃子に呼び出される蓬莱の鬼のアイも好感の持てるもので、物語の緊張感は 途切れない。それゆえ客観的に見ればサービス満点の舞尽くしの後場もまた、演劇を 観ているという距離感は喪われてしまって、見所もまた、舞台の上のワキの意識に同化してしまう。
以前拝見した「三輪」のときもそうだったが(思えば、「三輪」の後場も取材している 物語は基本的には同じだし、女体であることも共通しているから、当然といえば 当然であるが)、香川さんがこうした神的な存在を演じるときの清浄さ、透明感は 奇跡的で、それを人間が演じていることが全く信じられない。 神舞は女体であれば、もう少しゆったりと艶やかにといった素人の予断はあっさり吹き飛び、 それは女体で舞うのがほとんど不可能ではないかと思われるほどのスケールと力と速度を 備えていて、それでいて女性的な優美さを些かも損なわない、私の想像を遥かに超えたものだった。
全く緩みというものがない動きから放射される気の流れの清冽さは、しばしば目をあけてそれを受け止めるのが 辛くなるほどのものだし、足拍子一つとっても、これはまさに両性具有の神の舞であって、 足して二で割るのではなく、両方が何事もないような自然さで両立しているのは驚異という他ない。 運びの荘重さと軽やかさの両立もそうで、地上にへばりついて生きている生物の体重というのを 感じさせず、重力の支配下で動いているをうっかり忘れてしまうようなものなのである。
それがはっきり感じられたのは、全曲の大詰め、岩戸から出て後、「高天の原に神とゞまつて」のところ、 能の抽象的な型の力の凄み、シテが両袖をまいて舞台をめぐると、そこには広大な空間が広がるのが 文字通り見える。今思い出そうと思ってみても、まさにシテは宙を舞っていて、能舞台は 見事に消えてしまっているのである。
後場のツレは神楽を舞う天女と、急の舞の後、岩戸を開く力神であるが、 内田茂信さんの天女の神楽は段が進むにつれ舞にも面の表情にも艶が増していくようであったのが印象的、 一方の塩津さんの力神の動きのキレの良さと力感は圧倒的で、後場は変化に富み、時間が経つのを 忘れるほどであった。

今回改めて感じたのであるが、演劇的な解釈とか、人間的な感情表現などでの誤魔化しが利かず、 能ならではの、能でなくては表現できないものが高い純度で提示されるという点で、脇能は能楽の持つ特性が 最も端的にあらわれるものに違いない。そして、とりわけ脇能に必要とされる人間離れした神々しさの表現において、 香川さん以上の舞手を思い浮かべるのは難しい。
それを思えば、個人の会の初回の演目に脇能を選ばれたのも、なるほどと納得がいくのである。 そして今回もまた、これまで拝見してきた香川さんの演能同様、演劇的な分かり易さとは異なった、 能ならではの凄みを私の様な素人にもはっきりとわからせる圧倒的な舞台であったと思う。

今年は更に是非拝見したいと思う番組が続くようであり、また、個人の会もまた既に次回以降の 演目が決まっていると伺っていて、すでに演能を拝見するのが待ち遠しい。 今後も都合がつく限り、香川さんの能を拝見していきたいと思っている。(2007.6.4記)