2007年9月2日日曜日

「第80回川崎市定期能」(川崎能楽堂・平成19年9月1日)

能「弱法師」
シテ・香川靖嗣
ワキ・高井松男
アイ・吉住講
笛・松田弘之
小鼓・森澤勇司
大鼓・国川純
後見・友枝昭世・内田安信
地謡・粟谷能夫・長島茂・中村邦生・狩野了一・井上真也・友枝雄人

「弱法師」については、あまりにインパクトが強くて、言いたいことがたくさんあるのにうまく表現できないもどかしさを感じずにはいられない。 終演後、会場で、日頃お世話になっている方々にご挨拶したのだが、余韻が残ってしまっていて、気持ちの切り替えが完全には出来ずに、 何か失礼があったのではないかと気になるほどの強烈な印象が残った。
能の素晴らしい演奏というのは、見る人間の心の非常に奥底まで射通すような、ほとんど「破壊的」と呼びたくなるほどの鋭さを持っているようで、 恐らくは容易に消し去ることができないような印象が残ることがあるのだが、今回の演奏もまさにそうした力を持ったものだった。こうして書いている今でも 鮮明に「見るぞとよ」と思わず語って差し出した手の先へと踏み出す弱法師の姿が、そしてまたその数分後には転び、倒れて嘲られ、杖を折れよとばかりに地に 叩きつける姿が思い浮かぶ。そして己を恥じる素振りの哀しさもまた。勿論、それらを穏やかに冷静に思い出すことなどはできず、その時の自分の反応もまた 同時に反芻することになる。

この能の前半は、視覚を奪われた主人公に相応しく、梅の香りが印象的なのだが、今回の上演ではその香りよりも寧ろ、香りを頼りに己の袖に落ちかかる 見えない梅の花びらを見る姿が痛ましい。杖の使い方も、杖を追うようにして、けれども機敏に聴こえるものや気配に反応する動きの鋭さもまた、 そうした「見えぬものを見ようとする」主人公の意志のようなものを感じさせる。立ち上がる動作の敏捷さは特に印象的で、私は主人公の姿に或る種の 高貴さを、そして、見ようによっては不相応な驕慢さにさえ近づく矜持のようなものを感じずにはいられなかった。その顔貌もまた寧ろ超然として、まるで 気配に一心に耳を澄ますかのような風情があり、そしてそれだけに一層、その後姿には悲哀感が漂うのである。
四天王寺の由来の語りの部分もまた印象的で、坐って全く動かないシテの内面の感情がその語りとともに高まっていくのがわかる。それだけにその段の 最後に一度きり両手を胸元で重ね合わせるような所作に籠められた力に圧倒される。この部分があってこそ、あの日想観での感情の迸りが可能になるのだ。
前半、そのようにして主人公の裡に溜め込まれた力が、後半では日想観によって激しく外に向かって放たれる。「見るぞとよ」という言葉に偽りはないのだ。 彼にとっては、心の裡に広がるイメージこそが現実なのだ。父とは気づかずに交わす会話にも自信が溢れる。そのすぐ後の顛末を知る者は、その誇りと 確信に満ちた姿を見て、かえって胸がつぶれるような悲しみに捉われてしまう。
だが、今回の上演を拝見して感じたのは、転び、嘲られて現実に還った俊徳は、悔しさを、憤りを感じはしても、その現実に完全に絶望しきった わけではないのでは、ということだ。立ち上がる身のこなしの素早さも、否、伏して嘆き、怒りに震えて叩きつけられる杖の激しさも、己の姿を恥じる 姿にさえ、矜持を喪わない高貴な心が感じられるように思えてならなかった。父と再会して逃げるのも、絶望ゆえではなく、己の矜持を守るためと 感じられたのだ。それゆえ、最後で再会を喜ぶ父を残して、アイに送り込まれはするものの、決して父とともにではなく、一人舞台を去っていく姿にも、 再会の喜びではなく、しかし、自分が恃みとしてきた世界が破壊された絶望だけでもない何かが残っているように思われた。
演者がどのような解釈で演じられたのかはわからないし、私の上のような印象は正しい見方ではないかも知れないが、私には、この物語が単純な父子 再会の物語にも、あるいは一人の若者が敗退していく過程とも感じられなかった。そうした個人的なものを超えた何かが、神話的とでも言いたくなるような 象徴的なかたちで示されているように思われたのだ。
(この上演を拝見して思ったことは実は上記に尽きるものではないのだが、それらは最早、観賞の記録でもないし、作品の上演の感想ですらないもので、 私個人の文脈の拘束が強く、端的に言って極めて主観的なものであるため、[付記]として別にまとめることにした。それは上演の直接の記録としては 意味を為さないだろうが、にもかからわず、紛れも無く、この「弱法師」の上演に触発されたものには違いないのである。内容上、客観的な価値には欠けると 思うが、このようなことを考えさせるような能の上演だったのだ、という事実を残す意味で記録しておくこととする。興味がある方はご一読いただければ 幸いである。)

2番とも地謡と囃子は同じ演者なのだが、粟谷能夫さん地頭の地謡は、いつものように謡の内容を克明に浮び上がらせる解釈と、隅々までおろそかに ならない徹底したリアリゼーションが両立した素晴らしいもので、とりわけ前場における由来や縁起を語る部分の鮮やかさ、そして後場の場面の展開の 巧みさが際立っていた。特に「弱法師」における四天王寺の縁起の語りの部分の面白さは格別で、しかもそれがシテの心理的なプロセスとして日想観へと 有機的に繋がっていくことが明確に感じられた点が特に印象的だった。
これまたいつものように鮮やかに場面を定位させてしまう松田さんの笛は、特に今回、雰囲気も季節も異なる2曲を続けて聴くことができたため、 その対比が一層鋭く印象に残った。とにかくその音色の多彩さは圧倒的。国川さんの大鼓は「六浦」における鄙びた音色、そして何より「弱法師」後半の 高潮が圧倒的で、森澤さんの小鼓とともに曲調の違いに応じた表現の変化が印象に残った。 太鼓は「六浦」のみだが、この曲の太鼓は多くの太鼓物とは異なって、しなやかさ、かろやかさ、そして鄙びた雰囲気が要求される点が 特徴的だと思うのだが、金春国和さんの太鼓はそういった雰囲気が出ていたように思われる。

2番とも印象深い素晴らしい上演だったが、個人的には特に「弱法師」を拝見したのは近年にない圧倒的な経験だった。 これほどまでに心を揺さぶられる経験ができたことに対して、香川さんをはじめとする演者の方々、そして久しぶりにこの催しにお誘い いただいた方に対して感謝を申し上げたい。


[付記]:「弱法師」を見て考えたこと

能には、いわゆる「芸尽くし」のような系統の話があって、演じることの二重性が現れること自体はめずらしいことではないかも知れない、 一方で「物狂い」の系統というのもあって、この話はその両方の雰囲気を持っているように思われるが、常にはそうした枠組みをいわば「口実」として 使うことで、舞を中核とした作品が形作られていたのに対して、観世元雅作といわれるこの「弱法師」では、ベクトルは全く逆の方向を向いているようだ。 寧ろ、筋書きや物語の構造の方が「口実」で、それを通して、神話的とでもいうべき形象が象徴的な形で提示されていたように感じられたのである。
だが、本編の感想でも記したように、しばしばいわれるような父子の見かけの再会の背後にあるすれ違い、そして己の信仰を否定された若者の 絶望をそこに確認したというわけでもない。私が今回の上演で感じ取ったのは、あのような現実による手痛い否定にあってなお、俊徳のうちには 何かが決定的には損なわれずに残ったのではないかということ、矜持も誇りも、根こそぎ喪われたわけではないのでは、ということだ。否、それよりも それが最早一個人の感情や他者との関係の問題、個別的な経緯に原因をもつ状況の深刻さを超え出て、俊徳の悲劇のかたちをとって、もっと普遍的な ことがらが象徴的に表現されているように感じられたのである。

些か突飛な連想かも知れないが、この「弱法師」を拝見して、私は彼が、想像力の極限すれすれまで飛翔しつつ、「物狂い」の裡に、シンボルに よる壮大な虚の世界を創り上げる「芸術家」に限りなく近い存在であるように感じられた。要するに、ここでは逆に作品の内側から、「能」を演じたり 拝見したりすることを含めた人間の営みの方が照射され、それゆえ弱法師の「芸」や「物狂い」を単純に楽しむことは最早できないように感じられるのである。
さらにまた、偶々、ランガーの「感情と形式」を読んでいる最中であったということもあって、寧ろ彼の悲劇は、シンボルの体系の中で生き、 虚の世界を産み出すことを宿命づけられた人間という種の宿命そのものなのではないか、この作品の持つ力の大きさは、 表面上の物語における悲劇を超えた、より普遍的な宿命を浮び上がらせている点にあるのではないかとすら感じられたのである。

と同時に、日想観の部分の弱法師の姿を見て、些か突飛な連想ではあるのだが、時代も環境も異なる実在のある人物のことを思い浮かべずにはいられなかった。 その人物の名はヘルダーリン。狂気に近づきながら、見ることのない古代ギリシアの世界への憧憬のうちに、「多島海(エーゲ海)」「パトモス島」といった壮大な 詩篇を産み出した詩人。ヘルダーリンは盲目ではなかったけれど、弱法師の憧れる西方の極楽、心のうちに広がる極楽へと通じる、たくさんの島々が 浮かぶ海の風景は、現実にはギリシアを訪れたことすらなかったヘルダーリンの空想裡の古代ギリシア、エーゲ海と響きあうように思われたのだ。 勿論これは単なる連想に過ぎず、学問的な比較検討にたえるようなものでは全くない。だがしかし、一方はそれ自体虚構である物語の主人公、 もう一方は実在の人物ではあるけれど、その存在様態の一面において響きあうものを感じたのである。その純粋さゆえに、現実から残酷で苦々しい しっぺ返しを蒙ることも含めて、両者の存在の様態のある部分に通底するものを感じずにはいられない。

こんなことを考えるのは、もはや能を拝見しての感想からはあまりに逸脱してしまってるし、「弱法師」という作品の上演の感想としては不適切で、 見当外れであり、演じられた方にとっては寧ろ迷惑なことかも知れないが、見えもしないものを見えると叫んだ俊徳を嘲笑うことは私にはできないと思った。 否、私は彼の表情に侵しがたい「高貴」さすら感じたのである。
彼を嘲笑った人間だって、実は同じように「虚の世界」を持たずには生きていられず、やはり時折は現実に冷水を浴びせかけられていはしまいか。 さらにまた、終幕でアイに送込まれて橋掛かりを去っていく彼に気づいてか気づかずか、扇を開いて再会を喜ぶ父親が、彼以上に「盲目」でないと 言いうるだろうか。そもそも終幕は、父親が「昼間は他人の視線が気になるから」という理由で名乗るのを遅らせたがゆえに、夜の闇の裡にある筈なのだ。 多くの人が語るように、この結末は形式的には再会の物語であるにも関わらず、それは見かけの上、あるいは父親の意識の裡でのことに過ぎない。 そもそも讒言に耳を貸して、彼から視覚を奪ったのは、父親自身の「盲目性」のせいではなかったか。
視覚を奪われたゆえにか、見えるものには聴こえないものと会うことができた琵琶法師が、怪異の側にあるものとして怖れられ、「見ることのできる」和尚の 無意識の作為によってついには耳すら奪われてしまう耳無し芳一の物語と同様、俊徳の父親は、再会できたと思い込むことで俊徳から彼が生きるために 必要だった最後の領分すら奪ってしまうことにならなかったと誰が言えるだろうか。(「怪談」は、視覚に象徴される近代的な意識から眺めた時の展望に過ぎない。 それは夢幻能の世界とは何と異質なことか。それを思えば、観世元雅の「弱法師」には、能という形式そのものを内側から崩壊させかねない、そうした 近代的な意識の介入があると言えるのかもしれない。)

だから、後期詩篇を産み出したヘルダーリンのその後、チュービンゲンの指物師ツィンマーが提供した「塔」での長い薄明の年月が、 原因は違ったものであったとしても、ここでも再び、父と再会した俊徳のその後の運命と重なるとしても不思議はない。確かに現実には俊徳その人は 敗残し、もはや再び心の眼で「見る」ことはないのかも知れない。
だが、にも関わらず、俊徳の物語そのものは、残り、語り継がれていく、そして彼が見た「虚の世界」もまた、このような素晴らしい舞台を通じて、 何もない舞台の上で甦るのだ。「見るぞとよ」という俊徳の確信は、間違いではなかったし、それはずっとずっと平凡な私のような人間にとっても、 やはり必要となる瞬間のある何かなのだと思う。ヘルダーリンの詩篇が不滅であるように、俊徳が心の裡で紛れも無く見た夕陽の向こうにある ものも、不滅であるに違いない。俊徳は虚実を取り違えた、という冷ややかで客観的な認識は正しい。だが、俊徳のその「誤り」は、人間が 生きていくうえで避けることのできないものではないのか。だから俊徳の物語は彼個人の悲劇ではない。それは普遍的なものであり、それゆえ その姿は時代を超えて多くの人の心を打つのではなかろうか。
(この項未定稿, 2007.9.1/2/3)