2008年1月13日日曜日

「国立能楽堂2008年1月普及公演」(国立能楽堂・平成20年1月12日)

能「羽衣」舞込
シテ・香川靖嗣
ワキ・殿田謙吉
ワキツレ・坂苗融
ワキツレ・梅村昌功
後見・内田安信・佐々木宗生
笛・藤田次郎
小鼓・曽和正博
大鼓・佃良勝
太鼓・三島元太郎
地謡・友枝昭世・塩津哲生・出雲康雅・大村定・金子敬一郎・内田成信・大島輝久・塩津圭介

能はどこで終わるのだろう。

今回拝見した「羽衣」舞込の場合、去ってゆく天少女が紛れてしまった霞を眺めて立ち尽くすワキの白龍が留める。 形式的にはここで作品は終わる。そしてワキ、ワキツレが去り、後見が作り物を片付け、 笛が立ち上がるのをきっかけに、地謡が切戸口から、そして囃方が舞台を出て橋掛かりを渡って去っていき、 鏡板の松の前の舞台が空虚な空間になる頃合にやっと拍手がまばらに起きるが、それも多くはないし長くも続かない。

だがそのときですら舞台の上には或る種の気配、はっきりとした雰囲気を持つ空気によって充たされたままである。 このようなことは優れた演能の後にはしばしば起きることで、他のジャンルの場合と異なって、ここでは拍手の多寡というのは 何の尺度にもなりえない。見所の他の方が拍手をすることを云々するつもりはないが、自分では決してやらない。 私にとって能を観ることは、どちらかといえば奉納の儀式に立ち会うのに近いものに感じられるから、というのが理由だが、 今回の「羽衣」に関しては、自分もまた天少女が舞い、去ってゆく現場に居るように感じられて、能を観賞するという 距離感がなくなってしまったからというのが正しい。超自然的な経験に対して、人はただ驚き、呆然と立ちつくすしかない。 勿論、見たもののあまりの美しさに涙が出てくることはある。悲しいからではなく、あまりに純粋で透明で美しいが故に 涙が出てきてしまう。

恐らくは舞込の小書きによってもたらされたに違いない、天少女が後に残した雰囲気はそれほどに強烈だったのだ。 長い国立能楽堂の橋掛かりを存分に使って、くるくると廻りながら、時折、すでに遙か下方となった地上を見下ろしつつ (実際その瞬間、正面から見ている私からすると丁度脇正面の見所のあたりの空間に浦の風景が、そして富士山が 「見える」のだ)、どんどん舞い上がって小さくなっていって消えてゆく様は圧倒的で、白龍ともどもただ呆然と眺めるしかなかったのだ。

香川さんの演じる天少女は、最初から人間とは思えない透明感を持っていたけれど、とりわけ羽衣を身に纏ったのちは、 重力から自由であるかのようだった。ここでは天女の舞というのは、(背景としてはそうであっても)そう名づけられた芸能の名称では もはやないし、比喩でさえない。まさにそう名づける他ないものなのだ。玲瓏と響く足拍子も、地面を踏んで響いてくるものには聴こえない。 まるで体重を持たないかのようで、序の舞では何ということか、床が消えてしまう。それ以降、天少女は最早空中に 漂っているとしか思えない。どうしてそんなことが可能なのかはわからないが、見たありのままを書けばそういうことになる。 序の舞は通常の時間の流れが止まってしまい、天体の運行のような何かより大きな秩序、ここでは例えば月の満ち欠けの ような人間を超えたリズムのようだし、破の舞の後の所作では、シテの動きにつれて清々しい気と香りが撒き散らされるかの ようだった。所作、装束、面とどれをとってもそれは人間を超越した存在であることを示しているようだ。天少女というけれど、 それは加齢によって喪われる人間的な若さとはおよそ無縁で、そもそも年齢というものを超えているように感じられた。

それゆえあの有名は「疑いは人間にあり」ということばも全く自然なものに聴こえる。彼女は非人間的で純粋な存在なのだ。 冒頭のワキ方の謡による克明な情景描写、非常に具体的なトポスの定位は、天少女の雰囲気で全編を支配する意図で あれば省略すべきだろうが、今回能としては初めて「羽衣」を拝見する私にとっては寧ろ、天少女が人間から如何に掛け離れた 存在であり、天少女の舞を見ることが如何に非現実的なことであるかを浮き上がらせるコントラストの鋭さを齎しているように 感じられた。ワキの殿田さんはそうした経験をする人間の反応を鮮やかに演じられていたと思う。そしてまた、天少女も感情なき 存在では決してなく、白龍の態度に最初は困惑するし、その様子を見て衣を返した白龍の純粋さに対する感応もまた確かにある。 それゆえ天女の舞は、己の裡にある純粋さの分だけ、それを見ることが叶った白龍をはじめとする人間のためのものでもあるのだろう。

囃方の素晴らしさも特筆される。藤田さんの笛は最初は浦の風光の広がりを浮かび上がらせ、始めは地上の風景であったものが、 ついには天球の音楽になる。曽和さんの小鼓の音のまろやかさは、それが膜質打楽器であることを忘れ去れるようなものだったし、 佃さんの大鼓のしなやかさ、三島さんの太鼓も空気が鳴るようで、思わずうっとりとしてしまう。およそ濁りや夾雑物とは無縁で、 それがいかにもシテの天少女のイメージに相応しい。物着のアシライも素晴らしく、時の経過を忘れさせてしまうような美しさだった。 友枝さん地頭の地謡は柔らかで流麗でいて、細かいニュアンスの変化に充ちたもので、これまたシテのイメージにぴったり。

「三輪」「絵馬」のような神体、「杜若」のような非人間的な存在を演じる時の香川さんの素晴らしさは既に何度も経験してきたが、 今回の「羽衣」もまた、香川さんならではの透明感に満ちた圧倒的なものだった。そして今回はとりわけ囃方の奏でる音楽や地謡の 調子がそうしたシテの雰囲気と完全に一体となって天少女の純粋さを表現していたこと、人間的なワキを中心とする前場の克明さと 後場の人間離れした雰囲気との対比の鮮明が印象的だった。

こうした舞台を拝見できることは本当に幸せなことだと思う。 今年最初の観能がこのような素晴らしいものであったことに対して、香川さんをはじめとする演奏者の方々に御礼を申し上げたい。 (2008.1.13)