2008年11月24日月曜日

「喜多流職分会2008年11月自主公演能」(喜多六平太記念能楽堂・平成20年11月23日)

能「綾鼓」
シテ・香川靖嗣
ツレ・金子敬一郎
ワキ・宝生閑
アイ・野村扇丞
後見・狩野琇鵬・高林白牛口二
笛・藤田六郎兵衛
小鼓・曽和正博
大鼓・柿原崇志
太鼓・小寺佐七
地謡・出雲康雅・大村定・長島茂・笠井陸・高林呻二・狩野了一・大島輝久・塩津圭介

喜多流の「綾鼓」は、クセやキリの詞章が土岐善麿さんにより書き改められ、実質は新作に近いという話を聞いて いたが、実際に拝見してみた印象も、紛れも無く能でありながら、そこに滲み出る雰囲気はどことなく近代的で、 ニュアンスに富んでいながら輪郭がはっきりしており、心理の上では微妙な陰影や多様な様相を見せ、古作の 能とは異なって陰惨な印象の、救いの無い話でありながら、凄絶でありながら同時に磨きぬかれた美しさが全篇に 漲っているように感じられた。勿論そうした印象は、思わず完璧という言葉を使いたくなるような隙の無い 上演の完成度の高さによるものであったに違いない。会場は静まり返り、見所は金縛りにあったかのような 沈黙の中、固唾を呑んで舞台を拝見することになった。否、その魔術的な作用は終演後も続いた。 今回程に附祝言が開放感を持って響いたことはかつてなかったように感じられる。

作品について特に印象的だったのは、「見えること/見えないこと」「聴こえること/聴こえないこと」の 対立の鮮明さ。幕開け、脇座に女御が座るのが脇正面から拝見している私にとっては相対するかたちに なるのだが、彼女は実は見えない筈なのである。正先に出された作り物の桂の木には綾織りの鼓が かけられ、その音は、庭掃きの老人がこの上もない強さをもって打つにも関わらず聴こえない。老人が 身を投げて後の鬼は通常の知覚にとっては見えない筈の存在なのだが、今度は池のほとりに姿を現した 女御には浪音に鼓の音が聴こえ、鳴らない筈の鼓の響きに包まれながら、鬼は女御を捉えて引き降ろす。 終曲で鬼は音も無く波間に見えなくなり、舞台には伏して泣き崩れる女御が取り残される。 見える筈のないものが見え、そこに見えているものが不可視である。同様に、聴こえないものが聴こえ、 聴こえるものが聴こえない。物語の内側での錯誤が、能の演出上の工夫と渾然一体となって見所を 襲い、見所もまたそうした錯誤に否応無く巻き込まれる。これはまさにリアリズムによらない能ならではの 経験であり、その力に改めて圧倒されてしまった。

鮮烈な印象が残った部分も枚挙に暇がない。前半の頂点は、打っても鳴らない鼓に次第に苛立つ 緊張の高まりの凄み、「たばかられ」の部分でそれが一気に崩れ、伏して嘆く様の痛ましさ。この 部分での藤田六郎兵衛さんの笛の音は、老人の涙そのものであると私には感じられた。笛の音とともに、 面からどっと涙が溢れるように私には見えたのである。香川さんのシテは、装束によって告げられる身分の 低さよりも、思いの強さや一途さが感じられ、決して品位を喪うことがない。そういえば、最初に 拝見したのは「阿漕」であったが、これもまた所謂「卑賤物」であるにも関わらず、陰惨ではあるけれど 決して下品にも野卑にもならない強さが感じられたのを数年経った今なお思い出すことができる。 今回の演能も同じように数年経っても決してその印象の強度が喪われないようなものであったと思う。

後半の鬼も、非人間的な執拗さと仮借なさの中に、それに埋もれてしまうことの無い一途で、ほとんど 純粋といってしまいたくなるような強烈な心の傾きが秘められているように私には感じられた。 それは救済や解決には決して向かうことなく、ひたすら執拗さと仮借なさを補強することにしかならず、 無限に悪循環の中を彷徨わざるを得ない、全く救いのない感情の軌跡なのだ。 最後に橋掛かりから、舞台中央に伏して嘆く女御を振りかえる心に人間的な感情を 読み取るのは恐らく間違っているのだろう。だが、行き場のない強烈な心の動きがかくも完璧に、 しかも紛れも無く美しく立ち現われているのを目の当たりにするのはそれだけで心を揺さぶられる 経験であり、そうした見所自身の心の動揺を鬼の「心」に投影してしまいたくもなる。それほどまでに 香川さんの表現は鮮烈を極め、鬼の姿はどこをとっても美しかった。上述のように今回は脇正面から 拝見したので、例えば女御の打ちかかる様は背後から見ることになるのだが、それは凄惨でありながら 戦慄すべき美しさを備えていて、一瞬ごとに彫刻として定着させるが可能ではないかとさえ感じられたのである。

鬼を呼び出す囃子もまた仮借なく、執拗で、非情な勁さを備えながら、くぐもった陰に籠もるような虚ろさを帯びている。 これが神を呼ぶときにはあんなに透明で凛とした響きを放つ同じ楽器とは思えない。曽和正博さん、柿原崇志さん、 小寺佐七さんという名手揃っての演奏は、鼓の音を主題としたこの作品に相応しい。金子敬一郎さんのツレの女御は、 前半は脇座で全く動かないことによる「不可視」の表現と、後半の狂気の表現の対比が鮮やかで とりわけ「あらおもしろの鼓の声や」の表現は凄まじかった。

不可視の女御を代理して老人を死に追いやり、今度は老人の憤死を告げて女御を狂気に 追いやる不吉で非情な進行役である女御の臣下を演じられた宝生閑さんは、いつものことながら、 最初の出、最初の名乗りで、身分関係や舞台の雰囲気といった諸々を正確に定位する。その後も 舞台は臣下の介入によって句読点が打たれつつ進められていくのだが、その場面転換もまた鮮やかなことこの上ない。 臣下の従者たるアイの野村扇丞さんも舞台の調子の把握が見事。出雲康雅さん地頭の地謡も 多彩で圧倒的な表現力で、特に終幕の謡は聴き手の心を凍りつかせるような凄みがあった。 狩野琇鵬さん、高林白牛口二さんの後見も含め、先代の宗家である喜多実さんが初演した この作品に対する意気込みのようなものが感じられたように思える。このような素晴らしい舞台を 実現された演者の方に御礼を申し上げたい。また チケットを譲っていただき、このような舞台を拝見する機会をくださった方に感謝申し上げたい。

香川さんは1ヵ月後の12月23日にも喜多実さんの追善公演である塩津さんとの共催の 「二人の会」で「定家」を演じられる。性別も身分も変わるが、こちらも救いの無い執心物という点では 共通した部分がある。今から拝見するのが待ち遠しく感じられる。(2008.11.24)