2009年1月10日土曜日

「第22回二人の会」喜多實先生二十三回忌追善(喜多六平太記念能楽堂・平成20年12月23日)

能「定家」
シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生閑
ワキツレ・宝生欣哉・則久英志
アイ・野村万作
後見・高林白牛口二・中村邦生
笛・一噌仙幸
小鼓・大倉源次郎
大鼓・柿原崇志
地謡・友枝昭世・塩津哲生・出雲康雅・大村定・長島茂・狩野了一・大島輝久・内田成信

能の上演は一回性のもので、それは過ぎ去っていく宿命を帯びている。一方でその一回性が「奇跡」が成立する条件を構成するのだろう。 歴史に刻み込まれるような瞬間は、それが二度と繰り返されない、取替えの利かないものであるからこそ、時を経ても決して色褪せることのない 輝きを放つのだろう。こうした事情は何も能の上演に限ったことではないが、こと自分の経験に照らした時に、能はそうした側面をとりわけ強く備えているように 感じられる。そしてこの上演を終えた後、直ちに私はその場に居合わせることができた幸運を思った。そしてそうした気持ちは今でも変わらない。そればかりか 寧ろ益々強まっているくらいなのだ。観た自分がいつかこの世から滅したのちも語り継がれていくような、永続的な価値のあるものに、自己にゆるされた 限られた時間の裡で出会えることは何と素晴らしいことか。だからまず、シテの香川さんをはじめとする演者の方々に感謝の言葉を述べたい。

禅竹の能である「定家」は暗示的で多様な解釈を受け容れる或る種の曖昧さを備えているので、色々なやり方が可能だし、そうした解釈が徹底した場合には 素晴らしいものになるのはすでに経験済みであり、それだけに今回の演能が、作品にどのような光を当てるのか大きな期待を抱いて目黒の舞台に赴いたのだが、 私が拝見したものは、私個人のそうした興味などを遙かに超えた、あえて「完璧」という形容をしたくなるような一つの世界を呈示するものだった。 言葉が追いつかないのは、優れた演能を拝見した時にいつも感じることではあるが、今回はもう書くのを止めて沈黙することを選びたくなるほどその世界は 完成されていて、純粋なものであった。だからここではほんの断片的な印象を記すことしかできない。そう、今回については、自分が永久に、自分が受け止めた ものに追いつけないことが直ちにわかってしまったので、何を書いても仕様がない、という気持ちを抑えることができないでいるのである。

実際、この舞台にかける演者の方々の意気込みも並々ならぬものを感じさせ、囃子とワキによって為される前場の雨の降り込める寒々とした 風景のリアリティは、ワキと見所の視線の同化という言い古された表現を、実質を備えた重みあるものとする。風景の持つ色彩はくすんでいるが、 この上演では、全く色を喪い、完全に枯れ果てた荒涼ではない。墳は過ぎ去った時間の経過の長さを感じさせても、葛は命を失っていない。 季節の移ろいに従いはしても、それはそうした大きな秩序の一部であるかのように、長い時間の中を生き続けているのだということを感じさせる。 そしてそのような印象は、シテの持つ不思議な存在感と調和して、眼前の風景が人間的なものを超えた秩序を垣間見させるもので あることを示唆するかのようだ。

能を拝見して最も強く感じたのは、人間の卑小な感情や思念を超えた、もっと大きな秩序の存在だろうか。香川さんのシテは、前場も後場も、 その装束からして、人間であるよりは寧ろ、葛の精のような純粋さと透明さと品格を備えている。前場の面もどこか陰影を秘めているし、後場もまた、 痛々しい痩女なのだが、恐らくは小町物のような老女物においてと似たような感じで、それは冒しがたい気品と、純粋さ、強さを備えていて、美しい。 後場で葛に覆われた墳から式子内親王の霊が出現するところでは、香川さんの演能ではよくあることではあるのだが、見所のどよめきとも溜め息とも つかない反応が広がる。

序の舞の時間の流れをどのように形容したら良いだろうか。私は、それがいつか終わって、彼女が墳に戻ることをどこかで知っている。それは あらずじを知っているからとか、そういった作品世界の外側の知識や文脈が齎すものであるというよりは、その舞の持つ内的なリズムがそれを 内包しているというべきだろう。それと同時に、その舞は一回性のものではなく、永遠に繰り返されるのだろう、だからある意味ではそれは 永遠に等しいのだということもまた、感じずにはいられない。見るものの一生よりもそれは遙かに長く繰り返されるのだ。これまでもそうだったし、 これからもそうだろう。喜多流独特であるらしい、たどたどしい運びによる舞の持つリズムは、それが恋の妄執の苦しみの表現であるといった ような説明を受け付けないような、ほとんど人間的な感情からは離れてしまった存在のあり方の象徴であるかのようだ。そしてそれは 過去の幸福を偲んでのではなく、確かに報恩の舞なのだ、と私には感じられた。少なくとも舞っているその瞬間、彼女の心は過去への 執着からは解き放たれているのだ。一瞬、何段目のどこであったかは記憶していないが、時間の方向の感覚が完全に喪われるのを感じる。「永遠」の出来。

そうした宙吊りにされた時間を、まるで始めからそうすることが定められていたかのように彼女自らが断ち切り、舞が終わると彼女は墳に戻り、うずくまり、 扇で顔を隠す。能はここで終わるが、物語はそうではない。それはきっと反復されるに違いない、それは人間の秩序を超えたより大きな秩序、 ヘルダーリンの最晩年の断片に垣間見られるような非人称的な宇宙のリズムとでもいうべきものに通じているように感じられ、あるいはそのようにしてまた、 舞はきっと繰り返されるに違いないというように私には思われた。

劈頭に降り込めていた雨の音は終演時には聴こえたであろうか。否、私には、葛がひっそりと、けれどもしっかりと、永遠の劫の流れの中に佇んでいる ように感じられた。時刻がいつなのか、季節がいつなのかもわからない、そうした時空の中に葛に覆われた墳を見たように感じられた。 その感覚を私はうまく言葉にすることができない。一つだけ、そうした終演の雰囲気のなかで謡われた「融」末尾の、あの詞章が、私にはその場に 如何にも相応しいように感じられたことは記録しておきたい。後は、それがそれ自体、独自の確固たる世界を持っていて、だから、私がその場で感じたことの 如何なる説明にも、注釈にもならないことを断った上でなお、帰路に思い起こさずには居られなかったある詩の断片を以下に掲げておきたい。

野は荒涼として 遙かな山の上に
ただ青い空が輝いている、いくつもの小径のように
自然の現われるのは 同じようだ、吹く風は
爽やかに、自然はただ明るさにつつまれている。

大地の円は天空に包まれているのが見える
昼のうち また 明るい夜
(ヘルダーリン「冬」野村一郎訳)

*   *   *

素晴らしい演能を可能にする条件の一つに、見所の雰囲気があるということもまた今回強く感じられたことで、いつもにも増して張り詰めた雰囲気と 深い静寂は、この一度きりの演能に立ち会う見所の期待の大きさ、集中の高さを物語るとともに、そうした見所の静かな気迫が演者の気持ちと 触れ合って、この歴史に残るであろう上演を引き出したように思われる。そうした方々に交じって演能に立ち会えたことに感謝したいと思う。

最後になってしまったが、この催しは勿論、「定家」一番よりなっていたわけではなく、塩津さんの舞囃子「春日龍神」を劈頭に喜多流の名手の 仕舞三番を含む豪華な番組で、先代宗家の追善に相応しく、喜多流の実力の高さを印象づけるもので、帰路、口々にそのような感想を語り合う 見巧者と思しき方々が何組もいらしたことが、そのレベルの高さを物語っていよう。個人的にはとりわけ友枝昭世さんの仕舞「歌占」はいつもながら 何か異次元のものと感じられた。上述の通り、追善ゆえ番組の最後は「融」の結びで締めくくられたが、その詞が如何にも直截に心に響き、確かにこれは今日の 名人の方々を育てられた先代宗家にとって最高の追善であったに違いないと感じられた。

残念ながら、私には今回の演能がどんなに圧倒的なものであったかを、自分が受け取ったものに見合ったレベルで書き残すことができない。だがそれは、 自分が受け取ったもの以上のもの、自分の受容能力を超えて、もっともっと高い価値のあるものであったに違いないのだ。この文章は演能の価値に 比べれば全く不十分なのである。だから是非、当日見所に居られた方々に、より的確な記録を認められることをお願いせずにいられない。私よりも より的確に演能の価値を理解でき、また、それを書き留めることができる方々が見所には数多く居られたに違いないのだから。この上演を拝見した 者はそれを語り継がなければならない、とさえ私には感じられるのだ。それゆえ、この文章は未定稿のまま留まるだろう。手を加え、あたう限り、少しでも 自分が受け止めたものに近づけていかなければと思っている。(2009.1.10 未定稿のまま公開)