能「石橋」
シテ・香川靖嗣
ワキ・森常好
アイ・野村萬斎
後見・塩津哲生・中村邦生
笛・松田弘之
小鼓・鵜沢洋太郎
大鼓・亀井忠雄
太鼓・観世元伯
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・粟谷明生・出雲康雅・長島茂・粟谷充雄・金子敬一郎・大島輝久
幸運にも初回より拝見させていただいている香川靖嗣さんの個人の会も今回で3回目。これまでとは異なって舞台は水道橋の宝生能楽堂。 そして自分にとって能を拝見するのは今年になって初めて。曲は「石橋」である。「石橋」を拝見するのは3度目、前回は香川さんが地頭を勤められた舞台で、 前場の謡が描き出す、人を寄せつけないような風景の巨大さと険しさ、目も眩むような高さ、圧倒的な垂直方向の感覚が強く印象に残っていた。
今回の印象をあえて一言で言えば、渦の運動の多様さ、 豊饒さ、果てることを知らない流体の運動の感覚ということになるだろうか。香川さんの獅子は、生き物というよりはコスミックな秩序、法則が 獅子の形を借りて自己展開していく様相に思われた。比喩ではなく、カオスの縁の豊かさ、複雑さを目の当たりにするようであった。 物語では獅子は文殊菩薩の化身ということになっているようだが、私には人間が獅子を演じて動き回るというよりは、ある時はそこから力が湧き出し、 またある時はそこに力が収斂する特異点が相空間上に描く軌道と、そうした力の場の動的で果てしない変容が、獅子の形を借りてそこで 展開されているように感じられたのである。馬場さんがお話で、喜多流の一人獅子独特の巻毛の赤頭に言及され、渦とは「力」であるとおっしゃっていたが、 それを見事なまでに完璧に体現した舞台であったと思う。シテだけではなく、謡も囃子も一体となり、異次元の、普段は接することのできない 根源的な何かを舞台の上で展開する様が体験できた稀有な機会であった。それは恐らく「神変」という表現に相応しいものであったに違いない。 だが、私の感じ方をありのままに書けば、上述のような言い方になる。
しかし、だからといって、それは舞台に具体的なイメージが欠如していたということではない。寧ろ逆で、早くも森常好さんの寂昭法師が石橋への到着を 告げた直後、松田さんの笛の音色で明確に定位される前場の光景のリアリティはこれまでのどの舞台よりも確かなものだった。 友枝昭世さん地頭の地謡の肌触り、亀井忠雄さん、鵜沢洋太郎さんの大小の鼓の音色の変化、間合いの変化、掛け声までもが、眼前に広がる 風景の、ひんやりとした温度や空気の湿り具合、常に流動して止まない空気の流れの質感、そして時々刻々変化する光の調子までをも克明に 浮び上がらせる様は圧巻である。見所もまた、舞台を見ながら頂きも底も窺うことのできない程の広漠とした空間の広がりの中に立ち尽くすしかない。 クセの間、地謡が謡い進む中をシテの樵翁は着座して動かないが、それにより周囲の空間の巨大さが、そして絶えず変化する空気の流れと光の 調子が寧ろ鮮明に感じられるのだ。前場の頂点は、クセの後半、大小がまるで空気を切り裂くような拍子に合わない手によって眩いばかりの光の変化を告げ、 舞台に虹をかけるとそれに呼応するように、シテが立ち上がるところにあったと思う。いつしか何も音のしない筈の囃子と謡の合間の沈黙に、 鳴り続ける滝の水の音が基調の響きのように聞こえるような気すらしてくる。
そうした前場があらばこそ、後場の劈頭の乱序は、相転移が起き、「向こう側」が出来する際の急激な、めくるめくような風景の変化を告げる。 囃子には観世元伯さんの太鼓が加わり、空気の流れが急変し、光の調子もまるで稲妻が明滅するように慌しく変わり、乱流が現われる。 幾つもの渦が形成されては消え、あるいは融合して大きな渦となり、そこに獅子が現われるのだ。 それは地上のものというよりは、空間的なスケールも時間的なスケールももっと巨大なものを連想させる。例えば木星を 覆うメタンの海、その絶え間ない流動が生み出し、人間のスケールを超えて存在し続ける巨大な渦である大赤斑のことを私は思わずにはいられなかった。 獅子の動きもまた、渦をまくような回転の運動と、上下の動き、急激な静と動の対比、力強い動きと繊細で軽やかな戯れの対比が鮮明で、その変化の 鮮明さ、移り変わるニュアンスの豊かさはとても人間が演じているとは思えない。それは秩序とカオスの間にある相転移の場、カオスの縁の持つ多様性を 思わせる。見所に居る私は、姿勢を正して臍の下に力を込めて、自分に向かって飛び込んでくる音と気の粒子を五感の全てを解放して受け止める他ない。 息をするのも忘れて、自分を舞台のリズムに同調させるしかない。
そうしているうちに獅子は舞い納め、留拍子を踏んで全てが静止する。暫くは感覚が麻痺したようになって、我に返って椅子の背に凭れて息をついたのは、 ようやく囃子と地謡が立ち上がって拍手が起きてからだったように記憶している。生身の人間がそのままでは見ることが許されない何かに一瞬だけ触れるような感覚は、 能の持つ呪術的な力によるものなのだろうが、振り返ってみれば香川さんの演能では、繰り返し起きていることではある。「翁」もそうだったし、「三輪」も、「絵馬」も そうだった。前回拝見した「定家」すら、人間的なものを超えた大きな秩序を感じさせるものであった。だが、これほどまでの力の奔流を目の当たりにしたのは 「石橋」という曲ゆえかも知れないし、その一方で、この演能を体験した時間と、その前後の時間の流れ方のギャップの大きさが何時になく大きかったから なのかも知れない。帰路、水道橋の雑踏の中で、今しがた自分が経験したはずの何かの異様さと、自分が引き戻された時間の流れとの 間の懸隔に、戸惑いと苛立ちと軽い絶望感のようなものが混じった形容し難い気分に襲われた。
近年とみに身辺が慌しく、それが毎年累進し、とうとう今年は休日の外出の回数を大幅に減らさざるを得ない状況にまで至った。 今回もまた、まるで仕事を途中で抜けて能楽堂に駆けつけるような仕儀となり、自分が接するものが持つ価値の大きさに相応しい姿勢で拝見できるものか、 大いに危ぶんだのだが、それは杞憂であった。初めて訪れた水道橋の能楽堂に足を踏み入れて見所の方々の中に居る時に、桜を愛でる暇も、花曇りの風情を 味わう時間もありはしない私のような人間が、その場に居ることが酷く場違いであるという感覚からどうしても逃れられなかったけれども、 舞台を拝見していた時間だけはそうした感覚はどこかに消え失せ、豊饒この上ない時を経験することができた。
そして今再び、自分がこのような主観的な感想を書き留めることが、自分が受け取ったものの豊かさと大きさに比して、全く取るに足らないと いう感覚から逃れられずにいる。だが、とにかく、このような私にかくも素晴らしい演能を拝見する機会を与えてくださった方々に感謝したい。 そしてこれからも貴重な機会を逸することのないよう、香川さんの能を拝見する時間だけは確保しておかなくてはならないように感じている。 前回「定家」を拝見したときに、その記憶が自分よりも永く存続するような出来事に立ち会っているという感じを抱いた。今回もまた、 その場にいるのが自分のような人間であることが勿体無いように感じた。だがともかくも、 幸運にも自分には、そうしたものに接する機会が開かれているのだから、それを手放してはいけないのだと思う。公演冒頭、馬場さんは ワキの寂昭こと大江定基について解説しながら、一人一人にとっての「石橋」ということを語られたが、その顰に倣って言えば、 香川さんの演能は、それ自体、私にとっての「石橋」であるに違いないのである。(2009.4.5)