能「道成寺」
シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生閑
ワキツレ・宝生欣哉
ワキツレ・御厨誠吾
アイ・山本東次郎
アイ・山本則重
後見・友枝昭世・中村邦生・高林白牛口二
鐘後見・塩津哲生・狩野了一・佐々木多門・塩津圭介・佐藤寛泰
笛・一噌幸弘
小鼓・飯田清一
大鼓・柿原崇志
太鼓・観世元伯
地謡・粟谷能夫・出雲康雅・粟谷明生・長嶋茂・友枝雄人・内田成信・金子敬一郎・粟谷充雄
「道成寺」の実演を拝見するのは初めてだが、これまで録音・録画などで観た限り、能としてはかなり特殊な作品といった印象を持っていた。若い能楽師の修行のプロセスで 「道成寺」の披きが重視されることもあり、有名な作品ではあるけれども、もともとが観世信光作の「鐘巻」の改作と言われているこの作品は、どちらかといえば技巧重視で、 見せ場は多いけれど心の中に消し難く印象が残るような強度を備えているようには思えなかった。拝見しての感想を一言で言えば、かなり特殊な作品という印象は変わらないが、 表面的で深みに欠けた作品であるという認識はどこかに吹き飛んでしまった。そればかりかこれまでに拝見した能の中でも屈指の、強烈な印象を残す、貴重な経験となった。
勿論それには、この番組を演じた方々の一人ひとりの高度な力量に加え、この番組にかける一種異様に感じられる程の凄みさえ感じさせる集中が決定的な寄与をしていたことに 疑問の余地はない。「道成寺」といえばまずは前場のクセを省かれたその空白に嵌め込まれたかのような乱拍子が有名で、シテと小鼓がクローズアップされることが多く、 勿論この上演でもそのやりとりは見事なものであったが、個人的には乱拍子に至るまでの緊張感の圧倒的な高まり、そして乱拍子の後の急の舞から鐘入りまでのドライブの凄まじさが 一層印象に残ったように感じている。乱拍子はもともと別系統の芸能から取り込まれたもののようで、通常の能の様式の持つ運動とは異なった感触が強いが、この点でもまた、 異様なのは乱拍子だけではなく、鐘入りをはじめとする垂直方向の動きの多さに加え、作品の構造自体の異様さ、更には構成原理が、いわば「崩壊の論理」とでも言うべきものに 拠っている点の方が強く印象に残った。とにかく最初から最後まで、凄まじいまでの緊張感に貫かれた圧倒的な上演で、その凄みを言葉で伝えることなどよく為し能うところではないが、 それでも順次、印象に残った点を書き留めて置きたい。
「道成寺」はワキの僧の詞から始まる。宝生閑さんの謡は最初から高い緊張感を湛えていて、曲の調子をはっきりと定めてしまう。アイの能力を演じる山本東次郎さんとのやりとりも 通常ならアイの語りに相当する縁起を述べる部分も圧倒的で、とりわけ縁起の部分はまるで眼前に光景が甦るような生々しさ。後場の蛇身との対決の力感、末尾の留め拍子の 晴れやかさも鮮やかで、この破格の作品の枠組みを揺ぎ無く支えていたように感じられた。
「道成寺」でも特にシテ方が下掛りの場合には、アイの役割の重要性が非常に高まり、アイが鐘を運び入れて釣る行為が作品中の演技として組み込まれる。こうした役柄では 山本家の技術の確かさと格調の高さは上演全体の緊張感と格に決定的に寄与しているように感じられた。鐘を釣るのは能力姿の山本則重さんだが、ミスの許されない重責を見事に 果たされ、一回で鐘を釣ることができたのは圧倒的で、その手際に応えるかのようにその後の演能の緊張が一気に高まったように感じられた。鐘を釣る一対の竹竿は山本則俊さん、 則秀さんが裃姿で運びこんで準備するのだが、そうした道具の扱いの隅々にまで気持ちが行き届き、様式的にも美しい所作で準備がされるのも圧巻であった。アイはこの能では まさに「狂言回し」という言葉に相応しく、ワキの僧が命じる禁を破って白拍子を招じ入れ、カタストロフを引き起こす原因を作るのだが、その能力を演じたのは山本東次郎さん。 宝生閑さんとのやりとりも素晴らしいが、なによりも鐘入りの後の間狂言での則重さんとのやりとりが素晴らしく、ほろ苦い滑稽感により客席から笑いを引き出しつつも、 自らの引き起こしたスキャンダルの成り行きに怯える心理を見事に表現していた。ワキとアイの演じる道成寺の僧と能力は今日風に言えば不祥事を起こした企業でその善後策に 奔走するような側面があると思うのだが、そうした危機感、緊張感が作品に厚みを持たせていたように私には感じられた。アイに関してはもう一言、ワキが留めて 曲が終わった後、この能では上がった鐘を再び降ろし、鐘を釣った綱を外し、鐘に巻いて仕舞う作業があるのだが、この役割は山本則俊さんを中心とした山本家の方々が担うことになる。 そしてこの際の所作がまた見事でかつ正確で、この素晴らしい演能に相応しいものであったことを追記しておきたい。作品としての能は既に終わっていたとしても、行為としての 能の上演はまだ終わっていない。それは恐らく演者が舞台を去って誰もいなくなったときに終わるのだろうが、この後者の意味合いにおいてもこの演能は実に印象深く感動的で、 思わず能がただの演劇ではなく、宗教的な奉納の要素を持つことに思いを致さざるを得ないような厳粛さに充ちていたと思う。一見能としては破格に見える「道成寺」が、ある意味では 最も能らしく深い宗教的な感覚を備えたものであることを強く感じた。
破格といえばこの能のシテの登場もまた風変わりで、名乗りの後、上げ歌で道行を謡ってツキゼリフとなるのだが、まず印象的だったのは道成寺に向かう白拍子の表情で、 劈頭に「結縁を望む」と語るとおり、登場から既にそれはまるで清姫の霊が救いを求めて現れたかのようで、一般に道成寺物でイメージされるような官能性とは程遠いものと 私には感じられた。従ってアイに鐘供養拝見を乞うやりとりも、アイが白拍子の容色に惑わされたというような一般的な説明を受け付けるようなものではなく、寧ろアイはシテの 異様な切迫感、救いを求める心の必死さに負けたのではないかとさえ感じられた。
そうした宗教的な救済を求める感情の横溢は今回の演能の主要なトーンを規定していたように思われる。一噌幸弘さんの笛も、どちらかといえば不気味で緊迫した 演奏でそうしたシテの心象を表出していたように思えたし、柿原崇志さんと飯田清一さんの大小、観世元伯さんの太鼓も、異様な程の緊迫感でシテの心の裡の激しい衝迫を告げていた。 とりわけ凄まじかったのは、乱拍子の前、大鼓がシテに挑むように打つ部分で、直後の乱拍子が脈絡なく嵌め込まれるのでなく、シテの気持ちの高まりと一致したかの ような印象を産み出していたように感じられた。全体を通して柿原さんの演奏は、いつも以上に気迫が籠っていて、作品の演奏に大きな音楽的な流れを作り出していたと思うし、 囃子方の演奏は、あたかも全体で別の一つの楽器であるかのような理想的なものであったと思われる。複数の楽器の合奏が別の一つ楽器となるというのは、 ヘルムート・ラッヘンマンが全く異なる現代の西欧現代音楽の文脈である種の目標として語っていることだが、それが能楽においてはこのように比喩ではなくごく当たり前の こととして実現しているのは圧巻である。
この作品は改作の過程で前場のクセが省略されることにより、地謡の役割は相対的に限定されているかのような印象があるが、粟谷能夫さん地頭の地謡の表現は、 冒頭から圧倒的な表現力を持っていて、囃子と相俟って作品の音楽的な流れを見事に制御していたように感じられた。
このようにワキ、アイ、囃子、地謡が素晴らしい緊張感を絶やすことなく、有機的に噛み合って作品を形作る理想的な条件の下での香川さんのシテは表現する言葉を 喪う程に圧倒的で、特に乱拍子の後の急の舞から鐘入りまでの一連の流れは、今思い出しても動悸が早まり、胸が苦しくなるような激しさを備えていて、烏帽子を 飛ばして鐘に挑みかかる部分あたりから、目頭が熱くなるのを堪えることができなくなってしまった。それが一般に言われるところの恋の執心であるかどうかは、少なくとも 私にとっては副次的なものに感じられる。彼女はかつて自らが破壊した鐘が再興された供養の折にこの寺に訪れることによって、救われることを求めてきたのだ。 だけれども、結果は彼女の望みどおりにはならず、またしても彼女はかつて自分が辿った破滅の途を再び辿ることになってしまう。烏帽子を飛ばして鐘に向かった彼女の 心境は、寧ろ端的な絶望、やはりこうなってしまうのかという諦念とどこにも行き場のない怒りがないまぜになった深くて激しい感情ではなかっただろうか。
そうした感情の奔流は、鐘が再び上がったときに蛇身に戻って(私はあえて「戻って」という言い方をしたいと思う)姿を現した時の、あの例えようのない眼の表情に 直面した時に再び私を襲うことになる。私は偶々ワキ柱の近くの席で拝見していたこともあって、ワキ越しにまともに正面からシテと相対することになってしまったのだ。 勿論それは人間の演者が面をつけて演技をしているのであって、所詮は仮象に過ぎない等と冷静に言ってみたところで、実際に拝見した時に自分が目の当たりに したものの衝撃の大きさの前では意味を持たない。確かに私はあの眼から気がこちらに向かってくるのを感じたのだし、蛇身である彼女の耐え難く、行き場の無い 深くて強い悲しみの感情の波をまともに被ってしまったのである。それは私が勝手に想像していた「道成寺」のイメージとは全く懸け離れたものであったが故に、 全くの不意打ちであった私もまた、その感情の波に呑まれてしまい、その後を涙無しで見ることができなかった。
「道成寺」は、能としては異例な垂直方向の運動が非常に目立つ作品であるけれど、今回の演能を拝見して感じたのは、そうした動きが作品の構造の中で 心理的な区切りの機能をしているということであった。例えば乱拍子にしても、実際に拝見して印象的だったのは、小鼓の間合いを計る部分よりもその後に 打たれる段毎の句読点の持つ心理的な効果の方だったし、これは他の作品でも普通におこなわる足拍子が、この作品の脈絡ではいつもとは少し違って、 あたかもその後に来る「崩壊」のプロセスを呼び寄せる機能を果たしているような感じを受けたのである。この能では、高まった緊張は頂点に達した後、 まるで相転移現象を起こしたかのように突如として崩壊し、そのことによって次のフェーズへの移行が行われるのである。最も大きな崩壊は、勿論鐘入りの 鐘の落下と同時の飛び込みであるし、次は僧に祈り伏せられて橋掛かりで飛び上がって安座する部分だろう。最後の崩壊は、 日高川に飛び込むべく、揚幕に向かって飛び込む部分である。
こうした展開の仕方をする能は思いつく限りでは他に類例が見当たらず、それゆえやはりこの「道成寺」という作品は能としては特殊なのではないかという 印象となるのだが、牽強付会の謗りを覚悟にあえて類比したものを求めるのであれば、私はマーラーの交響曲の一部が備えている「崩壊の論理」と 呼ばれている構造原理が最も近いのではないかという気がする。勿論この点についてきちんとした論証をするのは現在の自分の手には能力的にも 時間的にも到底負えない課題だが、今回の演能から受けた印象に最も近いものを探すとすれば、私の場合、マーラーの第6交響曲のフィナーレ(第4楽章)が まず思い浮かぶのである。マーラーはこの作品で伝統的な形式を限界まで拡張し、そこにハンマーのような異質な楽器、非音楽的な音響を 持ち込み、しかもその音響を作品の構造上の決定的な地点での相転移のきっかけとして用いることで、通常想定しているのとは全く逆のやり方で 作品をいわば否定的に構成してみせた。それと似たような構造上の感触を「道成寺」に私は強く感じるのである。
だがそれよりも何よりも決定的なのは、烏帽子を飛ばして鐘入りする時の白拍子の絶望の表情であり、鐘が上がったときに観た、あの例えようもなく 深い悲しみの表情である。恐らくはそれを私は決して忘れることができないだろう。きっと誰もが心のどこかに潜ませていて、だから決して未知ではなく、 けれども常には安全に閉じ込めておける感情、けれどもそれゆえに祈りが、救済が必要とされる動因となるような心の動きが、この「道成寺」という 作品には際立って純粋な、生でむき出しな形で息づいている。「道成寺」が能の中で特別視されるのは決して故ないことではないのだろう。通常の能と 異なって救済の失敗を内在する論理によって組み替えられたこの作品には、にも関わらず(あるいはそれ故に)、 能の持つ超越的なものへの感覚、宗教的なものへの結びつきのいわば「根」にあたるものがもっとも純粋な形で息づいているのだ。今回の演能はそうした根源的なものを 余す事無く開示したという点で、比類のない圧倒的なものだったのだと思う。こうした演能に接することができた幸運に感謝するとともに、香川さんを はじめとする演者の方々に御礼を申し上げることでこの感想の結びとしたい。(2009.12.26初稿, 12.31加筆,2010.2.15読者のご指摘を受け、鐘入りの 部分の所作を「飛び上がっての安座」ではなく、「飛び込み」に訂正。ご指摘に感謝します。)