2011年4月17日日曜日

「第5回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成23年4月2日)

能「朝長」
シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生閑
ワキツレ・工藤和哉
ワキツレ・御厨誠吾
アイ・山本則重
後見・塩津哲生・中村邦生
笛・一噌幸弘
小鼓・曽和正博
大鼓・国川純
太鼓・金春国和
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・粟谷明生・長島茂・狩野了一・友枝雄人・金子敬一郎・佐々木多門

平成23年3月11日の東日本大震災の後、様々なジャンルの様々な公演がある場合には已む無く、ある場合には自粛という主旨で中止される中、 「第5回香川靖嗣の會」の公演は中止することなく上演されることを心の中で願いつつ、私は3月を過していた。少なくとも私の中では能ははっきりと 祭祀的な意味を備えているし、とりわけ香川さんの演能にそれを強く感じてきた私にとって、元雅が深い思いを潜ませたに違いない鎮魂の能「朝長」が他ならぬ 香川さんのシテで上演されることは是非とも実現されて欲しいことであったが、更に言えば、軽微で間接的とはいえ震災の影響から無関係ではありえなかった私自身が 何よりまずそれを拝見することを強く望んでいたのだと思う。

月替わって4月2日、暖かく晴れたこの日も公演中に余震に見舞われる中、幸い「朝長」は最後まで上演され、私はそれに 立ち会うことができた。私には本当に心から能楽堂を訪れ、能を拝見することがしみじみとありがたく感じられたし、その気持ちを終演後に主催者にお伝え せずにいられなかった。この時期に公演を(しかもそれが個人の主宰する会であってみれば尚のこと)実施するについては非常に大きな困難と、それに劣らぬ 心理的な葛藤がおありであったことと拝察する。だがそうした状況下での決断は上演に常ならぬ異様な力を齎したと私には感じられた。 主催者をはじめとした演者の方々に見所も一体となったこの公演は、能の持つ深く強く大きな力を闡明する稀有な出来事となったことを、 主催者、共演者の方々、および公演を支えられた多くの方々に対する敬意とともに、まず劈頭に書き留めておかずにはいられない。

*   *   *

香川靖嗣の会は毎回、開演に先立ってお話があるのだが、今回は番組が「朝長」ということで三宅晶子先生のお話であった。三宅先生ご自身も偶然の符合に 驚かれていたが、「光陰を惜しみ給へや」という題は「朝長」という作品の核心であるとともに、この公演の置かれた状況にあまりに相応しい。乱に敗れて落ちのびようと する途上で傷を負って自害しなくてはならなかった朝長という人物像が、個人の悲劇を超え、運命の前に無念の最期を遂げる人間の思いを集約するアトラクターの ように感じられ、だから朝長の鎮魂のための供養もまた単に一個人に向けてのものとは感じられない。否、正確を期するならば、朝長を供養するのが匿名の旅の 僧ではなく、彼の最期を知る青墓の長者であり、朝長ゆかりの僧であり、そうした彼らを前シテ、ワキとして前場を構想した如何にも元雅らしい着想が、逆説的にその 人物造形の「個別性」を通して、普遍的な、けれども個別性を決して喪わない祈りへと見所を導くのだというべきだろう。観音殲法は朝長という個人を知る 彼らの個々の懺悔の刻であり、そうであることを通して見所一人ひとりの懺悔へと通じているのだという感覚を逃れることは私にはできなかった。

前場はまぎれもなく春の風景の中で展開されるが、その透明な光の感じがかえって心の中に疼く痛みを射通すように感じられる。災厄の後も季節の巡りは超然と していて、変わらぬ光と風とが却って、非可逆なカタストロフィックな出来事が起きたこと、最早かつてのようではなく、同じではないこと、相転移のこちら側に来て しまったのだということを厳然とした事実として思い起こさせる。そうした透明感とどこかに潜む蟠りがもたらす重い空気の共存を描き出すのは名人揃いの囃子方である。 繰り返しになるが、前シテを亡霊とするのではなく、残された生者とし、ワキを縁なき旅の僧ではなく、朝長にゆかりのある僧とするのは隅田川や弱法師の作者でもある 元雅らしい着想で、後シテを呼び出す枠となる供養もまた偶々なされるのではなく、ここではそもそも前場の登場人物たちがそのために集うのだ。 「偶々」があるとすれば本来別々に各人が抱いている思いが出会い、集うことにあるのだろうが、そうしたシンクロニシティを偶然と呼ぶことはできまい。 まさに「光陰を惜しむ」気持ちが一見偶然に見える邂逅を用意するという消息を、元雅の作劇法は見事に示しているように私には感じられた。 そうして出会った想いの深さを語りだすのは地謡で、まるでギリシア悲劇のコロスのようにその「場」の想いを、だがコロスとははっきりと異なってあくまで「個」が 秘める想いをシテに直接語らせるのではなく、地謡に語らせるのは能ならではで、能としては別段の新機軸ではないのだろうが、それが元雅の構想の下で 持つ効果は格別のものがあるように思われた。謡の進行とともにいつしか深い慟哭の調子を帯びるかのような囃子の移ろいもまた見事で、特に小鼓の奥行きに 富んだ深い響きが耳に残る。

後場の観音殲法を準備するのはアイの語りと語りのあとの告知であるが、それを担うアイの語りは格調高く、場の雰囲気を一層高めて後場を用意する。 「殲法」の小書きこそないが、明らかに供養の儀式を思い起こさせずにはいない太鼓の響きに導かれるようにして登場する朝長の霊は颯爽とした若武者 姿で、三宅さんが事前に紹介された十六の面が帯びるまっすぐな勁さに私は心を打たれた。その朝長がまず「光陰を惜しみ給へや」と 語りかけるのはワキとの対話で、その後、朝長の語りは己のことのみならず父の運命にも触れつつ、前シテであった長者にも向けられる。作劇法から長者の 姿は当然舞台にはないが、それは前場で長者が語るときに朝長の姿が不在であるのと対称である。通常のつくりであれば、シテの姿は前後で異なるけれど、 いずれも結果としてはシテとワキとの対話になることを思えば、このことが持つ効果は決して小さなものではない。見所もまた幽明境を異にしつつ再会する 二人を同時に見ることができず、つまり「再会」は舞台の上では決して実現せず、それゆえそれぞれを相手の心の裡に浮かび上がるものとして、 同様に心の裡に思い浮かべるしかないのだから。

地謡が戦乱を語るクセの謡の最中に、冒頭でも述べたように余震に見舞われ、一瞬会場に緊張が走るが、まるで拡がりかかる動揺をねじ伏せるように謡と囃子が 舞台を進めていく。その中でシテが「梓弓、もとの身ながらたまきはる」と魂魄別れての苦しみを謡うのを聴いて身を切られるような想いに囚われる事無く いることは不可能である。見所の意識は最早生きて供養するものの側にあるのではなく、まさに修羅道の苦しみの裡に共にあるかのようだ。 最後に朝長が自分の最期の様を見せるのもあまりにリアルで、それが過去のこととは思えない。故あってこの感想を書き留めるのは拝見してから 2週間も経ってからなのだが、今思い起こしてもその最期の様がフラッシュバックのように鮮明に甦り、それを見たときの自分の情態が再現されて 息苦しくなるほどだ。

2週間前に会場で私が受け止めたものが、客観的に見てどこまでこの上演自体の備えた質に由来するものであるか、冷静に考えれば判断し難い部分が あるのは確かなことだが、こと今回に関しては、それを客観的に分離することにどれだけの意義があるのか、と問い返したい気持ちを抑えることができそうにない。 そもそも演者の高い技量は今更私如きが言っても始まらないことだろうし、私は寧ろ、震災からさほどの時を経ずに、まさに「光陰を惜しむ」ようにして、舞台の演者 全員がこれ一度きりの思いをぶつけあって創りあげられたに違いないこの舞台の持つ、状況と不可分の力の莫大さを書き留めておくことを積極的に選びたいと思う。

震災から約1ヶ月が経ち、この文章を綴る時間がようやく出来たときに、自分が経験したこの舞台と良く似た意味合いを帯びた、私が知っているある別の事実に ふと思い当たった。それは1948年5月、第二次世界大戦後ワルターがはじめてウィーンを訪れて演奏したマーラーの第2交響曲の演奏記録である。 戦争の記憶が生々しい時期のこの一期一会の演奏の持つ例外的な力、それに立ち会った会場の異様な雰囲気は録音記録の音質の制約を越えて尚、 充分に感じ取ることができる。「原光」と題され、「子供の魔法の角笛」に収められた天使と争うヤコブの歌(だがそれを歌うのは女声なのだが)と、クロップシュトックの 有名な賛歌「復活」を核に作曲者自身が自ら書き下ろしたテキストが歌われるこの曲の歌詞が、これほどまでに重みを持って一言一言噛み締めるように歌われ、 それを支えるパッセージが各楽器によって歌われ、聴き手の心に染み渡ってくる演奏は稀であろうと思う。それを私は半世紀以上の時を経て異郷の地で聴いている。 だが、ここで記録する「朝長」はその上演に立ち会うことができたのだ。どんなに拙く、主観的なものであっても自分の経験を記録せずにはおけない、 そうした経験であったことは間違いない。恐らくこの後も折に触れ、そのときの経験を、震災に纏わる様々な記憶ともども反芻することになるだろう。 そのためにもこのようにして、感じたことを感じたまま記録しておく次第である。(2011.4.17初稿)