2011年12月30日金曜日

「第28回二人の会」(喜多六平太記念能楽堂・平成23年12月23日)

能「松風」身留
シテ・香川靖嗣
ツレ・塩津哲生
ワキ・宝生欣哉
アイ・野村扇丞
後見・中村邦生・粟谷浩之
笛・一噌仙幸
小鼓・大倉源次郎
大鼓・柿原崇志
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・大村定・長島茂・友枝雄人・内田成信・金子敬一郎・佐々木多門

今年の観能は震災直後の「朝長」とこの「松風」のみ。震災の影響もあるだろうし、それ以外の要因もあるだろうが、今年の後半は多忙を極め、 気力・体力の限界に近い状態が続く最中、「松風」を拝見することになってしまい、私は目黒に足を運ぶことを逡巡せざるを得なかった。 自分の体調のせいで、舞台の質に相応しく拝見できるかどうかについて、率直に言って全く自信が持てなかったのである。以前の「砧」も 異様な状況での拝見になったが、その時の感覚がトラウマのように自分の意識の奥底に澱んでいるのが生々しく思い起こされること自体が 現在の自分の状態を告げているようにも思えたのだ。

そして拝見し終えて後、その演能のあまりの素晴らしさに引き擦り込まれ、集中して拝見できた一方で、その感想を纏める段になれば、 そこで起きたことを果たして自分が十二分に受け止め得たかどうかについては心もとないこと夥しい状況であることをこうして事前に申し開きせざるを得ない。 既に拝見してから一週間が経過してしまったが、その間に自分の中で受け止めた印象を反芻し、整理し、あるいは熟成させることが出来た訳ではなく、 寧ろその逆に、再び相対せざるを得なかった多忙に紛れてしまいかねない状況であったのだ。そうした状況に抗しえて、心中に鮮烈に刻印されている 印象を僅かでも書き留めることができるとすれば、それは一にかかって演能の素晴らしさのもたらすもの以外あり得ない。 「申楽談義」には、この作品は「こと多き能なれども、これはよし」とあるが、まさにそれを実証するような、細部に亙り、隅々まで充実した 圧倒的な演能であった。何時にもまして、まず香川さんを始めとする演者の方々に対して御礼申し上げたい。

実を言えば、目黒に足を運ぶことに躊躇いを感じた理由の一つに、番組がまさに「松風」であるということがあった。これもまた全く私個人の問題で あって、他人から見れば理解しがたいであろう心理的な機制によって、例えば「朝長」のような追悼の、慰霊の能であればともかく、「松風」のような 能を、その作品に相応しく受容できる自信がなかったのである。

だがこの懸念もまた、演能そのものの質によってあっさり覆されることになった。ただし上記のような心境の人間が受け止めたものは非常に個別的で 客観性を欠いたものであることは容易に想像される。従って以下はあくまでも上記のような文脈でこの舞台を拝見した人間の印象ということで ご了承いただければと思う。

この演奏で何といっても印象的だったのは、その囃子の雰囲気である。劈頭の名乗りの笛から始まって、例外的な「真ノ一声」、「物着」のアシライ、 舞からキリへと全編にわたって、濃密な海の気配、そして交替する現実感、場を支配する感情の表出と、どれをとっても最高の演奏と感じられた。 特に圧倒されたのは、絶妙の間合いで打ち込まれた柿原さんの大鼓の音によって始まった「物着」のアシライで、「物着」が物語の流れの中断、 中入りなどではなく、紛れも無く作品構成上、最も重要な部分ですらあって、実際には動かずに後見が装束を替えるのを座して待つシテの心情が、 その前の部分から全く途切れる事無く、寧ろ堰を切ったように高まり、溢れていくのを目の当たりにした思いがして、不覚にも私は涙を堪えることができず 天井を仰ぐ他なかった。考えてみれば「物着」というのは松風が自分の意識の奥底の核心的な部分、彼女がこの世に最早存在していない にも関わらず、幽霊として出現せずにはいられない根拠に真直ぐと降りていくことそのものなのであるから寧ろ当然なのかも知れないが、そうした 知的な解釈による理解は、その場を支配する感情の力の途方もない強さの前に色褪せてしまう。

そして物着を終えて立ち上がった時の表情は、最早元のままではあり得ない。それは普通の言い方をすれば「憑かれた」状態ということなので あろうが、物着のアシライによって舞台を支配してしまった彼女の思念の強さ、立ち上がった彼女の表情は、見所が見るものの現実感の 遠近法を変えてしまう。見所は最早ワキの僧の視線でもなく、諫止する村雨の立場でもなく、松風の見るものにこそ最高の実在性を見出すのだ。 生者ではなく幽霊である筈のものが更に憑かれるというのは冷静に考えればそれ自体異様な状況だが、ここでは物着によって、あたかも松風が 実在性を獲得したかのような逆転が起き、その後の中の舞も破の舞も、見ている者にとっては、それこそが紛うかたなき現実としか思えない。

だがそれは、今回の演能に関して言えば、まさに「真ノ一声」によってシテが舞台に登場するところから周到に用意されていたようにさえ思える。 登場した時点から、村雨と松風の存在の在り様は、通常の演出であれば意図するであるような双子的な類似性からは程遠く、香川さんの 演じる松風の存在感は、人間を離れた何かのそれであり、村雨と強いコントラストをなす。村雨は旅の僧や(少なくとも最初の部分での)見所と 松風との媒介のような存在であって、だから最初は連吟を通してしか松風の声は届かない。松風が一人で語り始めると風景が変容し、 現実の須磨の浦ではなく、或る種ヴァーチャルな時空間の中で汐汲みが行われる。その後塩屋に宿を請う僧と問答するのも、まずは村雨であり、 再び連吟ののち、幽霊としての己を明かすところに至ってようやく松風の声が単独で響くのだ。松風の声が単独で響くと時空が歪み、ヴァーチャルな 世界に舞台が変容することが潮の満ち引きのように繰り返されるのは能ならではで、ワキの僧が立つ現実から、幽霊が出現する位相、幽霊である 松風の心象のヴァーチャルな位相、そして物着の後の位相と、幾つかの相を遍歴するのも、囃子と地謡の名人芸的な自在さによるものに違いない。 一噌仙幸さんの笛はそうした相の移行を告げ、大倉源次郎さんの小鼓は虚ろになる現実感を、柿原崇志さんの大鼓は満ちてくる感情の波の 高まりを自在に表出する。相の移行の後の場の定位を行うのは友枝さん地頭の地謡である。

このように書けば、如何にも作品を図式的に捉えたかの如き印象を与えるかも知れないが、事実はその逆で、見所に居る私は舞台で 繰り広げられるそうした多重的な世界の往還の傍観者ではなく、寧ろ同伴者のような感じで舞台の上の出来事を経験したのである。 非常に極端な言い方になるのを懼れずに言えば、物着の後、舞の間、私は松風の見た世界、しかも彼女が幽霊ではなく、実在で ありえたかも知れない世界を経験した、私は松風そのものであったとすら言いうるかも知れない。こうした経験を可能にするのが能という芸術 なのだということを改めて実感し、その力の大きさに圧倒されたのである。

まだまだ印象に残った細部は数知れない。今回特に印象的だったのは香川さんの謡が実に明晰で、面を通してでありながら、そのニュアンスの 多様さと併せて、詞が一字一句はっきりと聴き取れ、心の中に真直ぐに飛び込んで、それがたちまちに風景となり心情と化すことであった。 囃子も、地謡もそうだが、香川さんの謡も、物質的な音を聴くのでなく、そのまま意味内容が聴き手の心の中に響きわたり、風景が眼前に 繰り広げられ、心情が押し寄せてくるかのようであった。

「真ノ一声」で登場したのと対を為すように、破の舞の後、松風は「松に吹き来る、風」そのものと化す。最後に残ったワキの僧が留めるのは 常の通りであっても、去っていったのは風の精か何かのようで、そこには人間的な感情というのが最早ほとんどないかのようだ。残った松風の 中に立ち尽くす僧とともに現実に還る私は、だけれども、不思議と晴々とした気持ちになっていることに驚く。まるで能を拝見することで、 自分の中に蟠っていた澱のようなもの、固着していたシコリのようなものが一時、洗い流されたような気持ち、或る種のカタルシスを得たのだと思う。

ここから先は、再び私の個人的な文脈での連想を書き留めておくことをお許しいただきたい。私は今回の「松風」を拝見していて、それが自分の中に 封じ込めてあった風景に働きかける力を感じた。例えば汐汲みで松島が、千賀の塩竃が呼び出されるとき、それを「融」の能への間テキスト的な 参照としてよりは、震災の津波が押し寄せた、私の心の中に刻み込まれた東北の海岸の風景を呼び覚ますものとして受け止めた。突飛な連想、 こじつけであると頭では思っても、松風が抱く作り物の松を見て、そのまま陸前高田で、一本だけ津波に耐えて後、今や無慚にも立ち枯れつつある松の ことを思わずにはいられなかった。「松風」の能そのものは恋の執心の物語かも知れないし、そこには背景となる伝説があり、それは私の連想とは 全く関係のないものであることはわかっていても、震災と津波によって断ち切られてしまい、心の奥底に沈められてしまった数々の思いが、 物着の後立ち上がって松に向かう松風の姿に重なるのを止めることができなかった。「松風」という作品の見方として間違いであっても、 抗い難い力によって損なわれてしまったものの恢復を待ち続ける深い思いが、このようにして極限までの美しさを備えた上演によって、 これからもずっと後世に伝え続けられること、そしてその演能の中の一瞬、かりそめであったとしても、ヴァーチャルとリアルが反転して、 「あの松こそは行平よ」が真実になる瞬間を実現することができる芸術があることの重みを感じずにはいられない。

能は芸能であり、見る人を楽しませるものである一方で、常に奉納であり、そこには人間の祈りが込められているのだということを、今回私は身をもって 感じずには居られなかった。そして勿論、そうした認識はどんな演能であっても無条件に実現するようなものではありえない。そしてまた、 私が感じたカタルシスは、震災によって蒙った自分自身の傷に対するそれであったかも知れないとも思う。優れた能の上演は、病んだ心を癒し、 救う力を持っているのだ。だから最後に改めて、香川さんを始めとする演者の方々に、そしてこの上演を拝見する機会を与えて下さった方に 御礼申し上げて、この拙い感想の結びとしたい。(2011.12.30初稿)