シテ・山本則俊
アド・山本凛太郎
アド・若松隆
能「藤戸」
シテ・香川靖嗣
ワキ・森常好
ワキツレ・森常太郎
アイ・山本則重
後見・内田成信・佐々木多門
笛・槻宅聡
小鼓・森貴史
大鼓・柿原光博
地謡・中村邦生・長島茂・狩野了一・友枝雄人・金子敬一郎・大島輝久
川崎能楽堂での観能は久しぶりのこと、番組は狂言「口真似」と能「藤戸」で、「藤戸」と言えば、 以前同じ舞台で別の流儀で拝見したのが唯一だが、その時の山本則俊さんのアイの演技が鮮烈な印象となって残っていた。 今回は香川靖嗣さんのシテで則重さんがアイを勤め、能に先立つ狂言のシテを則俊さんが勤めるという番組で、 これは見逃すことはできないと考えて訪れたのだが、期待に違わぬ素晴らしい舞台であった。 こじんまりとした川崎の舞台は、舞台と見所の距離が小さく、囃子の響きが空気を切り裂いて直接耳に届き、 通常より少ない6人の地謡でも迫力十分、 150席程度の見所は満席。途中休憩を挟まずに約1時間40分程の間、見所もまた、開演5分前にはほぼ着席して 静寂が保たれ、その後も終演迄緊張を切らすことなく舞台に没入する充実した時間であった。
狂言「口真似」では冒頭、お酒を貰った主が一緒に飲むに相応しい相手を太郎冠者に探してくるように言いつけるのだが、 命じられた太郎冠者の則俊さんが、他を探すまでも無く自分がいるではないかと言うところで早速見所に笑いが広がると、 後は巧みな間合いの詞の掛け合いのリズムに乗って話が展開していく。相手に相応しい条件について無理難題を 言われて考えあぐねた太郎冠者は知己であるらしい下の町の住人を訪ねて連れて帰る。若松さん勤める住人は 酒癖は悪いらしいのだが、素面では礼儀正しいという住人が来たと知って凛太郎君勤める主が、太郎冠者に、 自分の口真似をするように命じると、その後は太郎冠者の独擅場、自分に酒を持ってくるように命じられたのを、 口真似で客である若松さんに命じ、たまりかねて主が自分を叱責するのを、「言い付けの通り」口真似で客を叱責し、 というのが繰り返される単純なつくりの話だが、これが則俊さんを中心とした山本家によって演じられると、 極上の音楽を名人の演奏で聴いているかのような印象を抱くことになる。
場面場面の転換の鮮やかさ、全体の見通しの良さ、そして、口真似をするところは単に滑稽なだけではなく、 舞台を対称的に使った所作も含めた反復の美しさを備えているのである。 口真似が惹き起こすナンセンスな状況を見ながら、それがどこまで続くのかを見所は固唾を持って見守るしかないのだが、 絶妙の間合いで繰り返される口真似が一回、もう一回とナンセンスの度合いを高めていくのは、 名人芸という外、形容する言葉が思い浮かばない。
主に引き倒された太郎冠者が、止めを刺すように口真似によって客を引き倒して、主がそうしたように自分も 舞台を去ってゆき、最後に落ちをつけるように引き倒された客人が後を追って舞台を去っていく瞬間に、 酒に呼ばれたのに訳もわからないまま小突かれ、引き倒される、客観的に見れば不条理な状況に巻き込まれた 客人の寒々しさのようなものを一瞬感じさせつつ、けれども最後までテンポよくリズミカルに作品を閉じる 手際の鮮やかさは見所に圧倒的な印象を残す。
息をつく暇も無いその音楽的と形容するのが相応しい舞台に見所も引き込まれて、拍手が起きて 舞台上が無人に戻っても見所の緊張はすぐにはほどけず、次の番組である能のお調べが聞こえてきてようやく 空気が入れ替わるような感じであった。時間にすればほんの15分程度の小品であるが、狂言の精髄を観るかの如き 充実の時間で、拝見できたのが僥倖と感じられる素晴らしい舞台であった。顧みれば以前拝見した「鎌腹」の舞台以来、 幾度と無く経験してきてはいるのだが、その度に感動を新たにし、その芸の凄味さえ感じさせる切れ味の良さに 圧倒されるのである。初見の人でもこの一番を見れば狂言が如何に奥深く、完成度の高いものであるかを知ることが できようという素晴らしい上演であった。
続く藤戸も冒頭の囃子とワキの謡による場面の設定がまず鮮明で、一気に作品の世界に引き込まれる。 ワキの盛綱が新領主として晴がましく藤戸に着くまでの駘蕩とし、光に満ちた春の空気が、 訴訟がある者は申出よと触れを出したあとの笛の一閃で空気がさっと変わり、 日が翳ったかのようにひんやりとしたものが舞台の上を流れ出すと、 幕が上って前シテの中年の女の登場となる。詞の上では老女となっているが、いわゆる姥ではなく、 だが面の効果も相俟って、その若さが寧ろ彼女の置かれた状況の苛酷さと憔悴の激しさを強調するかのようで、 俯き加減の面の表情は、彼女が単なる訴訟とは異なった決意を裡に秘めていることを感じさせずにはおかない。
最初は知らない振りをする盛綱も、追及の激しさに耐え切れず、 遂に自分が恩賞を受けた先陣の功と引き換えに行った非情の行為を語ることになるのだが、 ワキの森常好さんによる盛綱の心の動揺と変容の表現も明晰なら、嘆きと恨みが交替し、 悲しみに沈むかと思えば、ワキに詰め寄るようにして迫るシテの香川さん演じる女の心情の揺らめきの表現も克明で、 面が切られ、あるいは膝立ちのまま盛綱にむかってにじり寄り、最後には立ち上がって盛綱に迫って跳ね除けられて 安座してシオル型の一つ一つが、見る者の心に突き刺さってくるような鋭さを帯びているし、そのプロセスを 謡い上げる中村さん地頭の地謡も、緩急を大きくつけて心情の切迫と悲嘆の交替の激しさを感じさせて、 シテの感情を増幅して圧巻であった。
悔恨を新たにした盛綱がアイを呼んで、女を家まで送るように言いつけるとアイによる送り込みとなる。 則重さんのアイは同情に充ちた送り込みもさることながら、それ以上に、その後の盛綱への語りにおける、 身分の違いを超えて自分の気持を述べる気迫、正義感に充ち、物怖じしない堂々たる態度が印象的で、 数年前の則俊さんの、深い同情とやり場のない怒りがほとばしる裂帛の気を、今尚思い浮かべることのできる 圧倒的な送り込みとはまた異なった仕方で、見所の共感を呼びおこす素晴らしいものだったと思う。 藤戸のアイのやり方として、この山本家のやり方がどのように位置づけられるのか、知識のない私には詳らかにしないが、 いわば見所の代弁者のようにして舞台との紐帯となるこのアイの役割は、戦争状態における非戦闘員の殺害という、 決して遠い過去の物語の中でだけ起きているわけではない出来事を題材とする藤戸という能を特色づけるものとして、 更には、寧ろそうした題材がまさに今日の状況に対して強いインパクトを持つように思われるだけに、 それ抜きには考えられない程の説得力を備えたものに感じられる。
後場は一転して、夕闇が広がっていく中での管弦講の場面となる。囃子の表現はここでも素晴らしく、 太鼓が加わって、シテである漁夫の霊を呼び出していく。後シテの漁夫の霊は母親の年齢に対応するかのように 若く設定されていて、それだけに命を絶たれることになった彼の無念さが一層痛切に見所に伝わってくるかのようだ。
今回の上演で私が強く感じたのは、前場と後場の間に張り巡らされた連関で、 前場の母の嘆き恨みのエコーであるかのように、 漁夫の霊もまた盛綱に迫ってゆく様は、眼前には紛れもなく漁夫の霊が見えているにも関わらず、 記憶のどこかでそれが前場の光景と重なり合うかのようで、私は思わずワキがどのようにそれを受け止めているのかを 確認してしまった程であった。けれども今度は、殺害の場面を描写するのはワキの語りではなく、シテの所作であり、 圧倒的な表現力をもった地謡であって、思わず眼をそむけて天を仰ぎたくなるような鮮明さでそれは描写されるのだが、 ここでも幽かに前場でワキの語りに対して見せた前シテの母親の表情が二重写しになるのを感じずにはいられなかった。
上述のように、戦争が惹き起こす状況の非情さ、悲惨さを告発する能として、今回の演能は強い説得力を持つもの だったのだが、にも関わらず、今回の演能の圧巻はその後、後シテが恨みの頂点でワキに詰め寄ろうとした瞬間に、 まるで何かに撃たれたかのように或る種の相転移が起き、一転してシテが成仏していく、その劇的な転換に あったように感じられる。
変化する筈のない面の表情が一変し、それまで闇の中にあった舞台が一転してぼうっとした光に包まれたかのような 予期せぬ変化に私は圧倒されてしまった。勿論、詞を読めばそのようになっているのかも知れないが、聊か語弊のある 言い方を承知で言えば、この作品における成仏は、それ自体が奉納であり鎮魂である能という芸能の或る種の 約束事のようなものであり、特にこの作品の場合には形式的な結末には収まらない剰余があるという印象を 抜き難く持っていただけに、今回の演能の印象は一層圧倒的なものがあったのである。
それはシテの力量も勿論だが、まずもっては地謡の力によるものであり、またそれを支える囃子方の気迫に満ちた 演奏によるものであり、更には、前場におけるワキの心情の表出、アイのワキへの訴えといったものが、恰も背景を なすが如くに間接的に働きかけた結果なのは間違いない。仮にこの結末が能舞台の上で起きたヴァーチャルなものであると 割り切ったとしても、その力の凄まじさは圧倒的なものであって、能の上演が今尚、奉納や鎮魂といった力を 喪っていないことを目の当たりにさせられたように思うが、今回の演能はそうしたレベルを突き抜けて、 この能が扱っているような現実に対してどのように向き合うべきかについて、何か重要なものを与えてくれたように 感じられてならない。勿論それは、明確なメッセージの伝達が意図されたということではなくて、端的に優れた 上演によって浮かび上がってくるものであって、見所がそれぞれの文脈において受け止めるべきものなのだろうと思う。
年に一度二度の観能の機会しかなく、いわば万年初心者の私が、そもそもそれを充分に受け止めることが出来た筈は なかろうし、辛うじて受け止めたものすら、それを適切に言語化することが出来るとも思わないのだが、 そうした限界を承知の上で尚も強いて言うならば、ここで救いや赦しについて論ずることは一見容易に見えて、 実際にそれを実現することが如何に困難であるかということとともに、だがその困難さを正面から受け止めることの 裡にしか、救いや赦しの実現への可能性はないのだということを、頭での理解としてではなく、 全身で受け止めた実感とでも言う他にないものとして感じ取れたということであろうか。 奉納のおける鎮魂の祈りは赦しや救いに至る十分条件ではないけれど、祈り無くして赦しも救いもありはすまい。 芸能というのはそうした可能性の場を開き、見る者をそうした可能性にいざなうものなのではなかろうか。 能が持つそうした、奥深く、測り知れない力を改めて強く感じされられた観能であった。そうした得難い経験を 可能にしたシテの香川さんを初めとする演者の方々に感謝したい。
偶然にも私はこの半月くらいの間に、マーラー祝祭管弦楽団による「大地の歌」のコンサート、 三輪眞弘さんの「海ゆかば」の詞を題材とした作品「万葉集の一節を主題とする変奏曲」の再演、 そしてこの「藤戸」の演能と、それぞれ素晴らしい舞台に立て続けに立ち会うことができたのだが、 マーラーのコンサートはユダヤ人のホロコーストやアルメニア人ジェノサイドの記憶に関連付けられた ものであったし、三輪さんの作品ははっきりと太平洋戦争における「玉砕」と「特攻」を扱っていた。 それ以前から、戦争を知らない世代であることを自覚しつつ、太平洋戦争の回避と終結に向けての様々な人々の 苦闘の軌跡を辿り、他方でアッツ島、ペリリュー島、硫黄島、沖縄での「玉砕」を強いられた人々、 ニューギニアやビルマで直面した想像を絶する状況に立ち向かった人々、あるいは特攻に抗して戦うことを選んだ 人々の跡を辿る作業を自分なりの仕方で続けてきた。 そのせいもあってか、「藤戸」という能を「海ゆかば水漬く屍」という詞との連想抜きに拝見することが困難な 状態で私は今回の演能を拝見したのだが、そのこともまた、一層、今回の演能の最後に起きたことを何か不可能事が 実現してしまったかのような奇跡の出来として感じると同時に、そうした奇跡の起きる条件として、上記のような ことを感じることの背景となっていたかも知れない。
従って、こうした感じ方は私の個人的な文脈に基づいた主観的なものであるかも知れないけれど、 だからといって、受け止めたものの重みは聊かも減殺されることはないし、こうした受け止め方をした人間が 見所に居たということを書き留めておくことに何某かの意義がないこともあるまいと考え、客観的な観能の記録を 逸脱することを覚悟の上で、更には自分の受け止めたものの重みを担うことが自分の容量を全く超えたことで あることを認めた上で、そのことを書き留めておく次第である。(2015.9.6初稿)