2018年9月24日月曜日

「第15回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成30年9月15日)

狂言「鐘の音」
シテ・山本則俊
アド・山本泰太郎
アド・若松隆

能「天鼓」
シテ・香川靖嗣
ワキ・森常好
アイ・山本則重
後見・塩津哲生、中村邦生
笛・一噌幸弘
小鼓・曽和正博
大鼓・国川純
太鼓・小寺佐七
地謡・友枝昭世、粟谷能生、出雲康雅、粟谷明生、長島茂、友枝雄人、内田成信、佐々木多門

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 春秋2回開催となって3年目の香川靖嗣の會、春の「桜川」に続いて、秋の「天鼓」を拝見しに、 目黒の舞台を訪れる。昨年の「山姥」は急用のため拝見できなかったため、秋は「遊行柳」以来となる。 番組の前半は山本則俊さんの圧倒的な狂言「鐘の音」。いつも通り、こちらは別に感想を纏めることとして、 以下では「天鼓」の感想を記しておきたい。

 一言だけ記せば、「天鼓」が鼓の「音」についての物語で あるように、「鐘の音」も音に関わり、かつその祝言性が強く感じ取れたこと(これはそれぞれの持つ 演能の性格による部分も大きいだろうが、私個人としては、まさにそれを経験するために舞台を訪れて いるというそのものに他ならない)、いずれも後半の舞、仕方話が劇の内部に埋め込まれつつも そこから超出して、文字通り舞台を奉納そのものとする点において共通していて、番組構成の巧みさを 感じた。

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冒頭のお話は秋の恒例で金子直樹先生。例によって丁寧な解説で、特に印象的だったのは、 この作品については、いわゆる典拠が知られていないことを、世阿弥的な類型からすれば形式的には破格と 感じられる、ワキによる冒頭の長大な「物語」の提示の理由と関連づけられて言及された点と、 「藤戸」との構造的な類似性を、両者における前シテの感情のコントラストと共に指摘されていた点、 更には、喜多流では常には入らない太鼓が入ることと、楽の調子が盤渉調で奏されるという点。

 拝見すればわかることだが、単にシテが前後で異なるだけではなく、前場の末尾のアイによる送リ込ミも 共通していて鮮明な印象を残す。シテが前後で異なるということでは「朝長」が思い浮かぶが、 いずれも作者として元雅が擬定されていることは興味深い。前シテの息子を喪った父親の感情が、 「藤戸」の母親と異なって、冷えきっていることを金子先生は指摘されていたが、単純には分裂している という印象を与えかねない前場と後場の関係や、恨みが物語を展開させる動因となっていないという点も含め、 見方によってはやや不自然と感じる向きもあろう設定は、後場に現われる天鼓の霊が、理不尽な死への恨みを 述べることを一切せず、追悼の管弦講に感謝し、只管に鼓との再会を喜び、楽を舞うことと対応していているようだ。不自然といえばこちらの方が一層徹底していて、枠組みを借りつつも、作者の意図が全く別の処に在る 事は明らかなことのように思われる。そしてそれは結局、典拠がない、「ありえたかも知れない物語」を作者が仮構した点と結びついている、というのが 拝見しての感想であった。漢の時代の中国という、外国の話というのも、要するに「今」でなく、かつての「此処」ですらない、「ありえたかも知れない」 想像上の極東の国に物語を設定したということであろう。

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 上のように書くと、如何にも冷静に、頭で演能を拝見したように取られるかも知れないので 急いで否定しておくと、この日の演能は、これまで私が拝見した能の中でも、音楽的な経験の密度の 充実の点では屈指のものであって、囃子、地謡、そして後場の中核をなす楽の舞に、只々圧倒される他 なかった。終演後、香川さんの下で永年に亘って能を習われてきた方にそうした感想を告げたところ、 「自分が舞いたいと感じた」と仰っておられたが、この日の演能の素晴らしさを語るのに、 これ以上の言葉があるとも思えない。

 能は一面においては演劇であり、多くの場合、眼前で心の動きが無意識のレベルまで露わにされ、 生の軌跡が浮かび上がるのに涙し、カタルシスを感じることになるのだが、この作品は、典拠に拠らず、 物語を仮構することによって、「音楽」そのもの(その起源においてそれは舞を必須の構成要素と していた点は留意しておいて良いだろう)を提示することに主眼があったのではと思わずにはいられない、 かほど左様にその「音楽」は圧倒的であり、見所で坐っていながらにして、音の奔流に巻き込まれて 眩暈を感じる程の強烈さであった。音楽を聴いていて、悲しいわけでもないのに、そこに立ちあがる音楽の美しさ、しなやかな勁さ、身体に沁みとおるその密度に圧倒され、感極まって涙を 堪えきれなくなることが時々起きるが、今回の観能で起きたのはまさにそれであった。

 後場の楽において鼓と再会した天鼓が無心に舞を舞う姿は、限りなく透明で純粋なものだ。 母親が鼓の夢を見て懐胎したという謂れを持つ少年天鼓は、天から降ってきた鼓そのもの、要するに鼓の精なのだが、 更にそれは、謂わば音楽の化身に他ならないだろう。 香川さんが、舞だけ切り取ったとしても、それだけで見所を圧倒することができるシテであることは、数多いとは到底いえないこれまでの観能の中でさえしばしば 経験してきたのだが、今回の経験はその中でも、その純粋さと透明感、輝きと軽やかさにおいて際立ったものだった。 人間ならぬ精霊を演じて、その無垢を、神々しさを、人間離れした純粋さを体現することにかけて 香川さんに替る存在は考えられないが、音楽の精が舞うことが作品の中核をなす「天鼓」という曲は まさにうってつけの作品であろう。勿論それは、作品に対する細心の配慮と長年の鍛錬に裏打ちされたものに 違いないのだが、拝見している最中には、そうしたことは忘れ去られ、見所もまた無心になって 笑みを浮かべ、恍惚とした表情を湛えた精霊の舞に自らを同化させる外ない。

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 些か先走ってしまったが、観能後暫くの時を隔てた現時点ですら、演能の一齣一齣が鮮やかに 思い浮かぶ。どの細部をとっても充実していて枚挙に暇はないのだが、印象に残った箇所を 時系列で記しておくことにしたい。

 まずは問題の冒頭、森常好さんによるワキの「物語」。天鼓の父、王伯を訪れた臣下という 劇中の役割を帯びていて、だがナレーションのようでもある不思議な感じ。ワキはシテに対する 外部の視線を構成すると言われるが、常のワキの役割とも異なるように感じられる。 論理的な解釈としてよりも、感覚的印象として、1レベル外側、物語を外部から語るかのように 感じられる。喩えて言うなれば、夢を見ている意識が、それが夢であることを意識しつつ夢の中の登場人物でも あるかのような二重性に近いだろうか。

 前場の頂点は、鳴らなくなった鼓を鳴らすという無理難題を命ぜられ、抵抗することもできずに 召喚される他ない王伯(彼が「罪」という言葉を口にするのを聞いて、ぎくりとする。一体何が 罪なのか、見所は戸惑うしかない)によって音が鳴らされた瞬間であろう。 はっきりと翁の表情が変わって、それまで滅していたかに見えた何かが確かに甦ったことが感じ取れる。 亡き子供への思いが鼓を鳴らすと説明すればわかりやすそうだが、舞台を拝見した印象はそうではない。 子供の形見、否、寧ろ分身という方が相応しいかも知れない鼓と再会し、それを手にとった時に、王伯の心の中に 何かが起きたのだ。

 そもそもが王伯夫婦にとっての天鼓は、竹取の翁にとってのかぐや姫のような 存在であったろう。鼓がそうであるように、天鼓自身もまた、天からの授かり物なのだ。天鼓が地上に降り立つにあたって何故王伯夫妻が 選ばれたのか、物語は説明をしないけれど、ともかくも鼓に再会した瞬間に、再び王伯の中で何かが起きて、 結果として鼓が鳴る。そうした何かを備えた人物として王伯は設定されていて、尚且つ鳴った鼓が、凍てついた王伯の心を溶かし、失ったかに見えた力を甦らせていく、その変容のプロセスを、 動きの抑制された舞台の上で目の当たりにするのは、奇跡に立ち会っているようなものだ。 だけれどもその抑制された動きによって、実際に打ち鳴らされるわけではない鼓の音が一瞬響いたように 見所が錯覚し、いや、もしかしたらそれは王伯の心の裡で何かが甦った徴候ではないかと見所が いぶかしむのは、能の様式の力であり、香川さんの巧まざる演技の力でなくてなんであろう。

 金子先生が予め指摘されていたように、その転換こそは論理的には後の場の管弦講を準備するものなのだが、 王伯が鼓を鳴らすことが既に招魂に他ならず、その聴こえない音は、時が逆流し、 蘇生と復活が行われる時間論的な消息を告げるものであることの実感が論理を圧倒してしまうように 感じられる。王伯は再び呼び出されたのだ、王伯を通じて、見所の我々にも「来たれ」の召喚の声が 鳴り響いたのだという揺るぎのない感覚に捉われる。逆説的なことだが、それを惹き起こしたのは、受動性の極みに達した 王伯の、自己放棄そのものなのではないかというようにも感じられる。

 以前拝見した「藤戸」の送リ込ミを彷彿とさせる山本則重さんの送リ込ミとそれに続く見事なアイの語りの後、 見所の意識が集中する揚幕から出現するのは、論理的には天鼓の「亡霊」ということになるのだろうし、 実際、本人がそのように名乗リもするのだが、私には、これこそが本来の天鼓の姿である、寧ろ鼓の精が本来の姿で出現したようにさえ感じられる。管弦講への感謝を述べはしても、自分が被った理不尽な死についての 呪詛はない。王伯と同様、天鼓もまた到来した鼓との再会と自己の蘇生の響きとを聴き取るばかりであるかの ようであって、生前の天鼓を知らない私は、もともと天鼓というのは、このようにこの世ならぬ、透明で 純粋な存在ではなかったかと思わずにはいられない。微笑を湛えて無心に舞っているのは年齢というものを超越した永遠の子供であり、その姿は人間が現実には遁れることのできない老いから自由であるかのようで、実際にはそれを人間が演じているという事実は、舞台を拝見している時間の中では忘れ去られてしまう。

 鼓が設えられた一畳台の上での動きの自在さは 驚くべきものだし(実際には、面で視界が著しく制限された状態のはずなのだが、そうしたことは 微塵も感じさせない)、舞となれば、まるで重力から自由でありうるかのように舞台を軽やかに巡って、 時折響く足拍子も、能舞台の床に張られた透明な水平な膜が鼓となって妙音を響かせているかのようだ。

 金子先生の指摘される「藤戸」との共通性は、 水に沈められての死という点にまで及んでいるのだが、「藤戸」との類似はそこまでで、この能の後場において、彼の屍が沈んでいる筈の呂水の水は、盤渉調の青色の奔流によって「生命の水」と化するかのようだ。 追加された太鼓もまた、そうした流れの勢いの印象を強める。既に述べたように囃子の素晴らしさは、空前絶後という形容をしたくなる 程だったが、天鼓を舞へと誘うワキの謡もまた、シテを召喚するマントラのようだ。それに呼応する太鼓を伴う囃子によって流水のイメージが増幅され、波濤の砕けたしぶきが月光に照らされて青白く煌めくのを目にするかに感じられる。 常には西洋のクラシック音楽を聴くときに感じられる共感覚を、能の舞台でかくも鮮明に感じ取ったのは 初めてのことだった。

 楽を舞う天鼓の表情の豊かさ、充溢する喜びの感情は、圧倒的な囃子ともども見所に働きかけ、 会場全体がよろこびの波動によって満たされていく。無心に舞を舞う姿に涙せずにはおれないが、 その涙は音楽をこちらもまた子供の心に還って無心に享受するよろこびのそれであるという他ない。

 キリに至り、シテが舞台を廻るに至り、 見所に座していながらに眩暈のような感覚に襲われて、一体ここはどこなのか?自分は何を見ているのか? 何が幻想で何が現実なのかの区別がなくなっていくかのような感じに支配される。 「また寄りてうつつか夢か」というのは、そうした己の感覚を述べているのではないかと思える程に。「夢、幻となりにけり」で突然舞台が静止し、それまでの絢爛たる音響の坩堝から静寂へと切り替わる。見所は魔法にかかったように、しわぶき一つ立てずに静まり返ったままで、ようやく 地謡が席を立ち、囃子方が橋掛かりを渡って舞台を去る頃になって、我に返ったかのように何時に無く 大きな拍手が舞台を包む。

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 今回の上演が、例えば技術的にどうであったかというのを語るのは私には荷に余ることだが、 最後に幾つか、帰途に思い浮かべたことを記してこの感想の結びとしたい。

 冒頭、ワキが語る物語が、まるで物語の外部のナレーションのようだ、と先に記したが、 それに照応するように、実感としては、後場もまた物語の外部であり、物語を内側から 現世的な視点で眺めた場合には、鼓が鳴ったことで生じた幻想であるもの、まずもって王伯が見て、恐らくはその場に居た人間の共同幻想であったでろうものが、この作品そのものであること、 音楽の持つ呪術的な力が作品を支える原動力でありながら、同時に作品のテーマでもあるといったこの作品のユニークな構造を感じずにはいられなかった。

 一見したところ必然性に乏しく、有機的に機能していないかに思われる物語を支える因果もまた、 外側から眺めたとき、なぜ天鼓は死ななくてはならなかったのかという問いに対して、そもそもが天鼓の存在 そのものが、現世的な秩序、世の成行きを超越した側面を孕んでいることの結果として了解することが できようし、天からの授かりものとしての天鼓と彼を追うように天から降ってきた鼓の二重性もまた、イデアルで人間の耳には聴こえない「天球の音楽」(それを「聴く」ためには法則性を解き明かすための数学が必要とされる)としての音楽と、そうした音楽を化体し、人間に聴き取れるものとするメディアとしての楽器の持つ呪術性という観点から捉えることができるように思われるのである。

 それらは総じて、ジャンルの違いを超えて、メディアアートのような領域で追求されているテーマに そのまま通じているように思われる。そうした見方に立てば、能楽は時代を超え、 今日なお、最高度のポテンシャルを備えた最高級のメディアアートに他ならず、この日の演能は、その考えうる 究極の達成の一つであったというように思えてならないのである。

 そういう文脈において直ちに私が思い浮かべたのは、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」を 初めとする「音楽」の根源を問い直す取り組みであった。例えば「天鼓」という作品の持つ、典拠の欠如という性格もまた。 不在の、架空の典拠を仮構し、「…という夢を見た。」というフレームで作品を括弧入れするという 三輪さんの批判的な姿勢に通じるものを読み取ることができるように思えるのである。そしてなにより少年の形象において、両者に通底するものを見ることができるのではないか。「天鼓」というのは、まさに「新しい時代」で、最後に自分の声で歌を歌うことができた「昇天少年」に他ならないではなかろうか。

  だがそれ以上に重要に思われるのは、「ありえたかもしれない」物語の創造が、まずもって死者の無念を 弔うためのものであること、そのことによって、メタレベルから出発しつつも階層を超えて、 「音楽」そのものとしての呪術性を獲得している点であろう。一見したところ現代の高度なテクノロジーを駆使しているかに見える三輪さんの作品がそうして姿勢において一貫していることは、その試みの射程を捉えるうえで極めて重要な点だと思うが、「天鼓」という作品もまた、典拠を仮構し、 死者の無念を弔いのための「音楽」というフレームを用意するという、ジャンルに対する自己言及的性、 メタな側面を持っていると同時に、それ自体が優れて「音楽」そのものでもあるという点において 著しい並行性を示しているように思われたのである。

 だけれども、それはあくまでも枠組に過ぎない。意図を最高度の実現にもたらすのは、演者の力に他ならないのだ。 それゆえ私がこの演能に接して最も強く感じ、深く納得したことは、プログラムに香川さん御自身が記された、この「天鼓」という作品に 寄せる愛着であり、作品の意図を実現するための太鼓の使用という判断の正しさであった。まさにこの日の演能は、 見所全体を圧倒する「舞う歓び」に満ちたものであり、それはまた、太鼓を伴う盤渉調の囃子によって 持ちうる最高のポテンシャルを実現したものであった。私自身は自分の能力の制限に応じて、 その全体のごく僅かを受けとめただけであるにせよ、見所にとって、この日の演能のような達成に 立ち会うこと以上の歓びがあるとは思えない。心からの感謝の気持を込めて、香川さんをはじめとする演者の方々に 御礼申上げることで感想の結びとする次第である。(2018.9.24 初稿公開)

2018年8月25日土曜日

「第114回川崎市定期能」(川崎能楽堂・平成30年8月11日)

「第114回川崎市定期能」第2部
能「融」

シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生欣哉
アイ・竹山悠樹
後見・友枝昭世・狩野了一
笛・栗林祐輔
小鼓・森貴史
大鼓・大倉慶乃助
太鼓・林雄一郎
地謡・長島茂・金子敬一郎・友枝雄人・内田成信・大島輝久・佐々木多門

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「融」を拝見しに川崎能楽堂を訪れる。香川さんの「融」は2度目。記憶する限り、香川さんの演能で同一演目を2度拝見するのは初めてではないか。前回の記録を紐解くと、喜多流職分会2002年11月自主公演能(喜多六平太記念能楽堂・2002年11月24日)の最後の演目だったようだ。ワキ・工藤和哉、アイ・三宅右矩、後見・佐々木宗生・内田安信、笛・一噌幸弘、小鼓・大倉源次郎、大鼓・柿原崇志、太鼓・金春惣右衛門、地謡・大島政允・出雲康雅・粟谷明生・梅津忠弘・松井彬・金子敬一郎・佐々木多門・大島輝久という演者による演能で、当時はまだ能を定期的に拝見するようになって間もなくのことで、メモ書き程度の短い感想として、「「融」はシテの姿の美しさが何よりも印象的。月の光が満ち溢れるような透明感、高貴さの 中に時折ふと執着の相を垣間見せる融の大臣の表情に驚いた。終結で天上へと戻っていく様は 鮮やかで、ワキの僧の留拍子に思わず、今まで眼前に繰り広げられた光景への驚きの気持ちを 投影してしまった。」と書き留めてあるだけ。だが、この舌足らずの短い感想を書いたことはほとんど忘れてしまっていても、演能そのものの印象の方は、遥かに強く、消し難く刻印されていて、とりわけても後場の舞の鮮やかさと、舞台に溢れる月の光の感じは褪せることなく、15年もの歳月が経過したことに驚いた。

以下、今回の観能の感想を記すが、いつもの通り、それは多分に私の個人的な文脈が影響したものとならざるを得ない。シテは同じでも、ワキ、アイ、地謡、囃子方も異なる。いや、同じ演者であっても15年間の様々な経験があるのだが、それ以上に、目黒の舞台と川崎能楽堂の違いから始まって、当日の体調や心理状態に加え、こちらもまた(観能に留まらない)様々な経験と、その延長にある直近の文脈(何に関心を抱いているか、或はもっと端的に、その時に読みかかっている本は何かetc.)とが観能の方向性を決定づけることは避け難い。それを前提に、端的な印象を述べれば、何よりも今回、この「融」という能が、今日的な言葉で言えば、ヴァーチャル・リアリティを巡っての、だが実際にはその言葉が通常持っている意味合いを超えて、ヴァーチャリティそのものについて、数百年の年月を超えてなおますます光輝を増すかにさえ見える透徹した認識と、その可能性の徹底した展開の達成を強く感じたということになるだろうか。それはまた、これは恐らく狭くて客席と舞台との距離が非常に近いこの能楽堂の特性もあって、特に前場の、如何にも世阿弥らしい僧と潮汲みの翁の対話を通じて浮かび挙がってくる「風景」の強烈なリアリティあってのことに違いない。

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開演時間は15:00で、前に狂言一番の後、休憩なしでお調べが聞こえてきて、そのまま「融」の舞台となる。客席はほぼ満席(中正面奥に若干の補助席が出ていたかも知れない)、外は今年の夏の異常な高温で、連日の「猛暑日」で空気が体温近くまで熱せられているのだが、能楽堂の中はうって変わって、行き届いた空調で、客席に長時間坐っただけだと、肌寒さを覚えるかもしれないくらい。それでも、ライトに照らされた舞台は、演者にとっては過酷な暑さに違いなく、実際に狂言が終わったあと、後見が舞台に落ちた汗を拭った程。一方では客席には毛布が配られて、配慮の行き届いた公演と感じられた。

いつもの通り、地謡は客席の大きさもあって長島さんを地頭とする若手(もう中堅と呼ぶべきかもしれないが)6人。こちれも若手による囃子方ともども空間一杯に音を響かせるが、舞台との距離もあり、(恐らくは演者にとってはそれに応じた工夫をされていると想像される)橋掛かりの短さもあって、正面後方からも橋掛かりでの謡がはっきりと聞き取れ、囃子と交差しても聴き取れなくなることはない。謡や仕舞を御自分もされるような方や研究者であれば詞章を諳んじておられるだろうが、そうではない私のような万年初心者には、その場で詞章がはっきり聴き取れるのは大変に有難く、最初に述べた前場のリアリティにも与っていたに違いない。

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舞台の近さはまた、特に正先にシテが出たときの存在感、その身体に篭められた気が見所に直接伝わる迫力をもたらす。それが能の伝統的な拝見の仕方からしてどうなのかは詳らかにしないが、例えば前場の名所教えの部分では、あたかも自分がワキツレになったかのような心持で、シテやワキの見やる方向を一緒に眺めるといった感じになる。実際には、かつて六条河原院があった現実の場所に行っても(後世、河原院を模して作られたとされる捗成園があり、河原町、本塩竃町という地名が残り、河原町通の東、高瀬川沿いには河原院跡の立て札が立てられていはするけれど)、今見える景色は当然、同一のものではありえない。だが見所の私が、潮汲みの翁と諸国一見の僧とともに見る風景は、「ありえたかもしれない」「かつて」の河原院からの風景なのである。今でも見ることのできるであろう音羽山から始まって、南に転じて稲荷山、深草山、伏見、西に転じて大原、小塩の山といった地名もそうだし、能が演じられている間、それを拝見している我々がいる河原院跡の風景もまたそうであろう。

だが、では「かつて」とはそもそも何時の事なのか?作品が作られた世阿弥の時代の河原院跡なのか?それともそこを訪れた僧が、融の霊である潮汲みの翁に導かれて幻視する、その当時を基準にしても既に「かつて」のものであった、融が生きていた時代のそれなのか?いや、推敲の故事を踏まえて描き出されるその池の風景は、或は先ほど響いていたのではと思い当たる門を叩く音は、現実の出来事であるというよりは、世阿弥が編み上げた仮想の空間でのそれ、「芸術」のみが産み出すことのできる「ありえたかもしれない」風景ではないのか?

勿論、それを現実に舞台の上に現出させるのは、シテを始めとする演者の技量である。何もない舞台で、装束と面と潮汲み桶の小道具による仮装のみによって、そこに潮汲みの翁が現われ、しかもその存在感は詞章の進行に応じて微妙に濃淡を変える。それに応じて現われては消えていく幾つもの時空を異にする世界を自在に行き来することを可能にするその力は、テクノロジーに支えられた今日の仮想現実に遜色ないどころか、専ら知覚や感覚を騙す技術に依拠するそれよりも、人間の備えている想像力のポテンシャルを汲み尽すという点で勝っているとさえ言えるのではなかろうか。

だが、勿論、作品の出来、演者の技量はあれど、それらは能の作品一般に言えることだろうことは、数々の名作を香川さんの舞台で拝見してきた経験から断言できることであって、冒頭に述べた印象は、それに加えて、この「融」という作品が持っている性格によるものなのではないかと思う。

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源融というのは実在の人物ではあるが、この作品の典拠になっているのは、一つには作品の舞台となった河原院の造営の故事であり、もう一つはその没後に起きた怪異に関する伝承のようだ。後者は例えば「江談抄」、あるいは「古事談」「今昔物語」に収められているが、それ自体が能のプロットにできそうな話であり、実際に、観阿弥作とも言われる古作の能は、寧ろそちらに近いらしい。荒廃した河原院を訪れた僧といえば、有名な「八重葎」の歌を詠んだ恵慶がいるが、同じく定家により選ばれた「陸奥の…」の歌が、遡及的に怪異譚を生み出すのに影響があったという見方はできないだろうか?だが世阿弥作の現行曲は、河原院造営の故事拠りつつ、後者については、既に荒廃している河原院を訪れた僧の前に融の霊が出現するという構造のみを借りているようであるけれど、前場がピークに差し掛かったところで、突然手を打って、何かに思い当たって我に還るところ、あるいは後場での名乗りには、怪異譚の翳が差しているという解釈も可能だろうが、舞台の印象は、寧ろ、今日の感覚からすれば権力者の道楽といった醒めた見方も可能な程の、或はそこに執念を感じ取ることさえできそうな、異郷の風景をこの場に再現しようとする思いの強さが勝っているようだ。膨大な人手をかけて、かなりの距離のある難波からわざわざ潮を運び、それを使って自邸で塩を焼いたという伝承は、今日的には、これまたヴァーチャル・リアリティの試みでなくてなんであろう。そして仮装現実の維持は、それが規模の大きな、徹底したものであればあるほど大きなコストを要することになる。恵慶がそうであるように、ワキの僧もまた、そうした夢の跡の廃墟を目の当たりにすることになる。

そしてその廃墟に、一時だけかつての仮想現実を甦らせるのは、今度は言葉の力、芸術の力なのだ。そしてそれは河原院という場所さえ離れて、数百年の年月の隔たりを超えて、何もない能舞台の上に、ありえたかもしれない現実の様々な相を現出させる。冷静に観れば、少なくとも前場は、僧が訪れた現実の河原院の廃墟の中で物語が進行していることになるのだが、見所が舞台上に見る風景は、それに留まらない。空間と時間が常とは異なる仕方で繋がっている、特殊な時空を経験することになる。現在の河原院辺りの風景を確認しようとすれば、今や現地を訪れなくてもGoogle Street Viewのようなツールを介して、仮想的に諸国を一見することが可能になっている。だが、舞台で繰り広げられている時空は、そうした現実の劣化したコピーではない。人間の持つ想像力の限りを尽した、「ありえたかもしれない」、だが現実にはどこにもない、「極東の架空の島」の或る場所がそこに現出しているのではなかろうか。

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そんなものは幻に過ぎない、実は存在しないのだ、と言うだろうか?だが、近年の研究によれば、生々しい現実感を伴う「現実」の知覚の「感じ」は、実際には情報処理の結果、編集されて、あたかもそうであるように思いこまされているに過ぎない、ということがわかってきている。それをもって「現実」そのものを虚構、幻想と見做す消去主義的な立場もあるが、私見ではそれはクオリアは存在しないとする立場と同様、不毛なものに感じられる。それは言ってみれば、向こう側にしか存在しない判断基準がこちら側にないことを根拠に、区別自体をないものと見做す誤謬に基づくものであり、一見して先入観や臆見を批判しているようでいて、実際には、そうすることにより自分だけは特権的な立場にいると思い込む夜郎自大に過ぎない。かてて加えて、もし手前に区別すべき多様な存在の様態があるのであれば、非実在のもとにそれらを葬るのではなく、それらについての存在論を編み上げるべきなのだと思われてならない。観能の感想を超えてしまうので、ここでは目配せをするに留めるが、例えばネルソン・グッドマン的な意味での「世界の制作」として「芸術」を考えることから折り返すようなアプローチが考えられるだろう。「心」そのものではなく、「心」が作り出す「作品」(マーラー風には、それはまさに「世界」の制作に他ならない)を通して「心」と「現実」とに接近することができるのではないか。

ある哲学者は、テクノロジーの発達により将来可能になるとされる人間のサイボーグ化に関して、実は人間はもともと、言語を獲得し、文字を獲得し、アーカイブを外部に蓄積することを始めた時からサイボーグのようなものであり、その身体は生物学的な身体を超えた広がりを持っているし、その心は決して生物個体の中に閉じ込められているわけでもないという主張をしているが、もしそうであれば、それを実感するために、何も最新のテクノロジーなど必要としない筈である。そして実際に、この日に演じられた「融」の能は、まさにそのことを実感させるような強さと深さを持ったものであったと私には感じられた。そして同時に、人を欺く技術としてのヴァーチャル・リアリティーではなく(融が河原院造営で目指したのは、一見そのように見えたとしても、そういうことではなかった筈であるし、少なくとも、それをこの不朽の名作に作品化した世阿弥の意図は別にあった筈だ)、ヴァーチャリティーに向けて開かれた人間の想像力と創造力こそが解き明かすべき領域なのではないか、というようなことを演能の記憶を反芻しつつ思わずにはいられない。少なくとも演能が開示した世界の豊かさと広がりは、私のような人間には到底汲み尽くし得ないような程のものなのだ。同じ作品の同じシテの演能も、時を隔て、場所を違えれば、都度新しく、より深く、広がりあるものとなることにも素直に圧倒されざるを得ない。だがそもそも、実は私の能力のせいで、これだけの豊かさを一度で汲みつくすことはできないのではないかという気もする。それほどまでに細部の隅々にわたるまで気の行き届いた世界は、卑小な自分が住まっていると思い為している現実で完結しているわけでは決してなく、「私」を超えて無限に広がっていて、それは原理的に「私」には汲み尽せないのだ。些か抽象的な言い方になるが、この日の観能が私に語ることを要約すれば、行き着くのはそうした認識のように思われる。(2018年8月25日公開)

2018年4月29日日曜日

「第14回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成30年4月1日)


「第14回香川靖嗣の會」
能「桜川」

シテ・香川靖嗣
子方・内田利成
ワキ・宝生欣哉
ワキツレ・則久英志
ワキツレ・野口琢弘
ワキツレ・大日方寛
後見・塩津哲生・中村邦生
笛・一噌幸弘
小鼓・成田達志
大鼓・國川純
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・粟谷明生・長島茂・内田成信・友枝雄人・金子敬一郎・大島輝久

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今年の桜は早かった。既に彼岸過ぎには満開で、4月になると間もなくあっという間に散ってしまう。 毎年の春の恒例の「香川靖嗣の會」の今年の番組は「桜川」、恰も予めそれを見越したかのように4月1日の日曜日に 開催され、目黒駅から能楽堂までの道の途中にある満開の桜が早くも散りつつある中を往復しての観能となった。

私事になるが、実はこの回に先立つ第13回、昨年秋の「山姥」の演能は拝見できなかった。初回より欠かさず拝見して きたけれど、途切れる時には誠にあっけない。昨年は春にも、それまでしばらく欠かさず訪れていた さるオーケストラの定期演奏会、しかもプログラムに作品の紹介文を寄稿までした演奏会に行けなかった。 取るに足らないことと言ってしまえばそうなのかも知れないが、年に何度も能楽堂やコンサートホールに足を運ぶ 人にとってのそれと、私のように極限られた機会にしか訪れない人間にとっては重みが異なる。

そして今回「桜川」も、舞台を拝見できるかどうか前日まで予断を許さなかったのであるし、当日も拝見したのは 「桜川」一番のみ。番組では後に続いた狂言も、仕舞「熊坂」は拝見を断念して能楽堂を後にした。 「桜川」の前日の夜は件のオーケストラの今年の演奏会だったのだが、これもキャンセル。そうした中、 同行者の歩行を気遣いながらの往復となれば、桜の景色も同じものではありえない。そして当然、そうした心理は 観能にも翳を落さずにはいない。

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この日の番組は、それまでの十数回と番組の構成が異なって、冒頭恒例の馬場先生のお話はなく、いきなり 能が始まった。その代わりということであろうか、会場で配られたブログラムには馬場先生が寄稿しておられる。 観能の回数が限られる私にとって、演能の時空は、それを囲繞する日常のそれとの間に或る種の不連続面を 持っていて、これまでは馬場先生のお話を拝聴しつつ、その断層を横断していたことを思い起こさずにはいられない。 これもまた演能の内容のみに専念する方にとっては瑣末ということになろうが、口開けにワキツレの人商人が現れて 事情を述べるのが、まるで舞台と現実とのあわいでのことのようで、幕が上り、シテが橋掛りに 現れると漸く風景が見えてくるように感じられる。

これは後から気付いたことなのだが、この曲にはいわゆる道行がない。 勿論、ワキの僧と子方の桜子の寺から桜川への道行がないわけではないのだが、 物狂のシテの方は桜川に既に先に到着しているのだ。桜川は実在の地名のようだが、近隣さえ訪れたことのない私には、 それは寧ろ演能により舞台上に浮かび上がる想像上の場所、再会のための特異点のようなものに感じられる。 もしかしたら、現実に過去に数多起きたであろう類似の出来事のどれとも同じではない、ありえたかも知れない 風景なのではないか。まるで夢の中で訪れた場所のように、時として現実以上に生々しいクオリアに満たされながら、 現実の中には場所を持たないユートピア(非-場所)での出来事のようだ。

勿論シテは自分で筑紫からの道行があったことを語るが、その道程をその場で再現するわけではない。 寧ろそれはこの場に木花開耶姫を呼び出すためであるかのようだ。 世阿弥の手になるらしい、シテや地謡が紡ぎ出す詞章の絢爛さが、或はまた、いわゆる「網之段」を核とする シテの所作の鮮やかさが、現実にはありえない程の舞う桜の散乱で舞台を埋め尽くし、 見所まで香りが届くかの如き心地である。 現実にはこれほどの桜が散れば、もはや枝には桜がなさそうなものだが、あろうことか、 枝は尚一面の桜花に埋め尽くされている、まるでそうした場でなくては再会は生じないのだと いうばかりに、、、

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「桜川」を拝見するのは二度目、20年も前、能を見始めて間もなくの頃に、珍しく他流での上演で拝見したそれは、 駘蕩としつつどこか鄙びた、仄かに明るい風景を見せてくれたという印象のみが残っていたのだが、 今回のそれは寧ろ、「再会」の奇跡が起きるとしたら、その瞬間はどのようなものでありうるかというのを 舞台の上に示したものに感じられた。聊か突飛な連想であることを承知で言えば、「我が子の花は何故咲かないのか?」 という嘆きに接して、例えば曾我物語の或るバージョンにおいて、その結末で年老いた虎御前が自らも空しくなる直前、 咲き誇る夜桜の枝に十郎の姿を見るというくだりがあるのをふと思い浮かべたりもしたのである。 勿論「桜川」は現在能であって、再会は現実のことなのではあるけれど、単なる再会の物語であることを超えて、 それはどこか神話的な非現実感を思わせる点で、寧ろ夢幻能に近い感覚さえ覚えた。物狂というのもまた、 そうした「再会」に至るための心的変容のプロセスとして考えることができるのではなかろうか。

思い起こせば一年前には、同様の状況で、全く異なる残酷な現実を直視した元雅の能「隅田川」を拝見したのだった。 世阿弥作とされる「桜川」と元雅の「隅田川」との対比はあまりにも鮮烈で、更には「桜川」における些か作為の過ぎた状況設定もあって、 それを単なる人情話的な現在能として受容することはできない。自己を喪い、自己の背後から呼び掛ける声(それは 自己の下で常には抑圧されている深層意識と見做してもいいし、より単純に、ジュリアン・ジェインズの二分心の 仮説において、そのように考えられているように、意識の成立以前の心の構造の残滓たる「隠れたる神の声」と 見做すこともできよう。或はまた、膨大な歌の引用がもたらす他者達の声の交響を見るべきなのかも知れない) に応じる「物狂」の果にしか「救い」はないのだという認識こそが示されているようにさえ思われたのであった。世阿弥が巧妙に仕組んだ詞章の織り成す世界は、そのまま「物狂」を通して見る「現実」に外ならず、だが無色透明な現実というのはそもそもありえず、人は皆、自分が埋め込まれた脈絡の厚みを通して、自分の「現実」に向き合う外なく、「物狂」というのはベイトソンの言う「無意識のエクササイズ」に他ならない、といったことが心を去来する。

そう思えば「桜川」という能は実に演じるに厄介な作品であるに違いない。 心理的な掘り下げとか解釈のような賢しらさは却って作品の姿をわかりにくくする危険さえあるのではないか。 寧ろ端的な謡や所作への没入こそが相応しいようにさえ感じられる。 勿論、それを可能にするのは長年の渉る修練がもたらす芸の蓄積の力に違いなく、それゆえ今回の上演は、 まさに作品そのものを「あるべきように」開示する稀有な出来事であったに違いない。

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上述のような繰言は、それ自体が賢しらな後知恵ではないかという反論があるかも知れない。 だがそれに対して私は、冒頭記したような状況での観能となった今回、このような優れた演能に接することが、 同行者にとってどんなにか大きな「慰め」となり、「癒し」となったかという事実を以て応えることができる。 比喩的に「慰め」「癒し」という言葉を使うのは容易いが、比喩としてではなく現実の出来事として それを体験するのは、それがささやかな日常の一部を構成するに過ぎないとしても、常ならば大げさな誇張としてしか受け取られない「救い」という言葉を使うに相応しい稀有な出来事ではないか。

10年以上、14回にも及ぶ蓄積の仮想的な断面を見ることができるとしたら、例えば、忘れもしない東日本大震災の直後の「朝長」のような「出来事」もあったけれど、今回は私的でささやかな、見所の座席のもう一つ隣には共有されえない、だけれども当人たちにとってはかけがえのない、しかも紛れもない「現実」の「出来事」であり、それゆえに外出が叶わず、常の年ならば決まって訪れた桜並木を訪れることが叶わなかった人間にとって、この上ない経験であったのだ。 そうした現実的な力を備えた経験を可能とした、香川さんを始めとする演者および企画に携わられた方々に 心から御礼を申上げて、結びの言葉としたい。
(2018.4.29暫定公開、5.3補筆修正)