2018年9月24日月曜日

「第15回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成30年9月15日)

狂言「鐘の音」
シテ・山本則俊
アド・山本泰太郎
アド・若松隆

能「天鼓」
シテ・香川靖嗣
ワキ・森常好
アイ・山本則重
後見・塩津哲生、中村邦生
笛・一噌幸弘
小鼓・曽和正博
大鼓・国川純
太鼓・小寺佐七
地謡・友枝昭世、粟谷能生、出雲康雅、粟谷明生、長島茂、友枝雄人、内田成信、佐々木多門

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 春秋2回開催となって3年目の香川靖嗣の會、春の「桜川」に続いて、秋の「天鼓」を拝見しに、 目黒の舞台を訪れる。昨年の「山姥」は急用のため拝見できなかったため、秋は「遊行柳」以来となる。 番組の前半は山本則俊さんの圧倒的な狂言「鐘の音」。いつも通り、こちらは別に感想を纏めることとして、 以下では「天鼓」の感想を記しておきたい。

 一言だけ記せば、「天鼓」が鼓の「音」についての物語で あるように、「鐘の音」も音に関わり、かつその祝言性が強く感じ取れたこと(これはそれぞれの持つ 演能の性格による部分も大きいだろうが、私個人としては、まさにそれを経験するために舞台を訪れて いるというそのものに他ならない)、いずれも後半の舞、仕方話が劇の内部に埋め込まれつつも そこから超出して、文字通り舞台を奉納そのものとする点において共通していて、番組構成の巧みさを 感じた。

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冒頭のお話は秋の恒例で金子直樹先生。例によって丁寧な解説で、特に印象的だったのは、 この作品については、いわゆる典拠が知られていないことを、世阿弥的な類型からすれば形式的には破格と 感じられる、ワキによる冒頭の長大な「物語」の提示の理由と関連づけられて言及された点と、 「藤戸」との構造的な類似性を、両者における前シテの感情のコントラストと共に指摘されていた点、 更には、喜多流では常には入らない太鼓が入ることと、楽の調子が盤渉調で奏されるという点。

 拝見すればわかることだが、単にシテが前後で異なるだけではなく、前場の末尾のアイによる送リ込ミも 共通していて鮮明な印象を残す。シテが前後で異なるということでは「朝長」が思い浮かぶが、 いずれも作者として元雅が擬定されていることは興味深い。前シテの息子を喪った父親の感情が、 「藤戸」の母親と異なって、冷えきっていることを金子先生は指摘されていたが、単純には分裂している という印象を与えかねない前場と後場の関係や、恨みが物語を展開させる動因となっていないという点も含め、 見方によってはやや不自然と感じる向きもあろう設定は、後場に現われる天鼓の霊が、理不尽な死への恨みを 述べることを一切せず、追悼の管弦講に感謝し、只管に鼓との再会を喜び、楽を舞うことと対応していているようだ。不自然といえばこちらの方が一層徹底していて、枠組みを借りつつも、作者の意図が全く別の処に在る 事は明らかなことのように思われる。そしてそれは結局、典拠がない、「ありえたかも知れない物語」を作者が仮構した点と結びついている、というのが 拝見しての感想であった。漢の時代の中国という、外国の話というのも、要するに「今」でなく、かつての「此処」ですらない、「ありえたかも知れない」 想像上の極東の国に物語を設定したということであろう。

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 上のように書くと、如何にも冷静に、頭で演能を拝見したように取られるかも知れないので 急いで否定しておくと、この日の演能は、これまで私が拝見した能の中でも、音楽的な経験の密度の 充実の点では屈指のものであって、囃子、地謡、そして後場の中核をなす楽の舞に、只々圧倒される他 なかった。終演後、香川さんの下で永年に亘って能を習われてきた方にそうした感想を告げたところ、 「自分が舞いたいと感じた」と仰っておられたが、この日の演能の素晴らしさを語るのに、 これ以上の言葉があるとも思えない。

 能は一面においては演劇であり、多くの場合、眼前で心の動きが無意識のレベルまで露わにされ、 生の軌跡が浮かび上がるのに涙し、カタルシスを感じることになるのだが、この作品は、典拠に拠らず、 物語を仮構することによって、「音楽」そのもの(その起源においてそれは舞を必須の構成要素と していた点は留意しておいて良いだろう)を提示することに主眼があったのではと思わずにはいられない、 かほど左様にその「音楽」は圧倒的であり、見所で坐っていながらにして、音の奔流に巻き込まれて 眩暈を感じる程の強烈さであった。音楽を聴いていて、悲しいわけでもないのに、そこに立ちあがる音楽の美しさ、しなやかな勁さ、身体に沁みとおるその密度に圧倒され、感極まって涙を 堪えきれなくなることが時々起きるが、今回の観能で起きたのはまさにそれであった。

 後場の楽において鼓と再会した天鼓が無心に舞を舞う姿は、限りなく透明で純粋なものだ。 母親が鼓の夢を見て懐胎したという謂れを持つ少年天鼓は、天から降ってきた鼓そのもの、要するに鼓の精なのだが、 更にそれは、謂わば音楽の化身に他ならないだろう。 香川さんが、舞だけ切り取ったとしても、それだけで見所を圧倒することができるシテであることは、数多いとは到底いえないこれまでの観能の中でさえしばしば 経験してきたのだが、今回の経験はその中でも、その純粋さと透明感、輝きと軽やかさにおいて際立ったものだった。 人間ならぬ精霊を演じて、その無垢を、神々しさを、人間離れした純粋さを体現することにかけて 香川さんに替る存在は考えられないが、音楽の精が舞うことが作品の中核をなす「天鼓」という曲は まさにうってつけの作品であろう。勿論それは、作品に対する細心の配慮と長年の鍛錬に裏打ちされたものに 違いないのだが、拝見している最中には、そうしたことは忘れ去られ、見所もまた無心になって 笑みを浮かべ、恍惚とした表情を湛えた精霊の舞に自らを同化させる外ない。

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 些か先走ってしまったが、観能後暫くの時を隔てた現時点ですら、演能の一齣一齣が鮮やかに 思い浮かぶ。どの細部をとっても充実していて枚挙に暇はないのだが、印象に残った箇所を 時系列で記しておくことにしたい。

 まずは問題の冒頭、森常好さんによるワキの「物語」。天鼓の父、王伯を訪れた臣下という 劇中の役割を帯びていて、だがナレーションのようでもある不思議な感じ。ワキはシテに対する 外部の視線を構成すると言われるが、常のワキの役割とも異なるように感じられる。 論理的な解釈としてよりも、感覚的印象として、1レベル外側、物語を外部から語るかのように 感じられる。喩えて言うなれば、夢を見ている意識が、それが夢であることを意識しつつ夢の中の登場人物でも あるかのような二重性に近いだろうか。

 前場の頂点は、鳴らなくなった鼓を鳴らすという無理難題を命ぜられ、抵抗することもできずに 召喚される他ない王伯(彼が「罪」という言葉を口にするのを聞いて、ぎくりとする。一体何が 罪なのか、見所は戸惑うしかない)によって音が鳴らされた瞬間であろう。 はっきりと翁の表情が変わって、それまで滅していたかに見えた何かが確かに甦ったことが感じ取れる。 亡き子供への思いが鼓を鳴らすと説明すればわかりやすそうだが、舞台を拝見した印象はそうではない。 子供の形見、否、寧ろ分身という方が相応しいかも知れない鼓と再会し、それを手にとった時に、王伯の心の中に 何かが起きたのだ。

 そもそもが王伯夫婦にとっての天鼓は、竹取の翁にとってのかぐや姫のような 存在であったろう。鼓がそうであるように、天鼓自身もまた、天からの授かり物なのだ。天鼓が地上に降り立つにあたって何故王伯夫妻が 選ばれたのか、物語は説明をしないけれど、ともかくも鼓に再会した瞬間に、再び王伯の中で何かが起きて、 結果として鼓が鳴る。そうした何かを備えた人物として王伯は設定されていて、尚且つ鳴った鼓が、凍てついた王伯の心を溶かし、失ったかに見えた力を甦らせていく、その変容のプロセスを、 動きの抑制された舞台の上で目の当たりにするのは、奇跡に立ち会っているようなものだ。 だけれどもその抑制された動きによって、実際に打ち鳴らされるわけではない鼓の音が一瞬響いたように 見所が錯覚し、いや、もしかしたらそれは王伯の心の裡で何かが甦った徴候ではないかと見所が いぶかしむのは、能の様式の力であり、香川さんの巧まざる演技の力でなくてなんであろう。

 金子先生が予め指摘されていたように、その転換こそは論理的には後の場の管弦講を準備するものなのだが、 王伯が鼓を鳴らすことが既に招魂に他ならず、その聴こえない音は、時が逆流し、 蘇生と復活が行われる時間論的な消息を告げるものであることの実感が論理を圧倒してしまうように 感じられる。王伯は再び呼び出されたのだ、王伯を通じて、見所の我々にも「来たれ」の召喚の声が 鳴り響いたのだという揺るぎのない感覚に捉われる。逆説的なことだが、それを惹き起こしたのは、受動性の極みに達した 王伯の、自己放棄そのものなのではないかというようにも感じられる。

 以前拝見した「藤戸」の送リ込ミを彷彿とさせる山本則重さんの送リ込ミとそれに続く見事なアイの語りの後、 見所の意識が集中する揚幕から出現するのは、論理的には天鼓の「亡霊」ということになるのだろうし、 実際、本人がそのように名乗リもするのだが、私には、これこそが本来の天鼓の姿である、寧ろ鼓の精が本来の姿で出現したようにさえ感じられる。管弦講への感謝を述べはしても、自分が被った理不尽な死についての 呪詛はない。王伯と同様、天鼓もまた到来した鼓との再会と自己の蘇生の響きとを聴き取るばかりであるかの ようであって、生前の天鼓を知らない私は、もともと天鼓というのは、このようにこの世ならぬ、透明で 純粋な存在ではなかったかと思わずにはいられない。微笑を湛えて無心に舞っているのは年齢というものを超越した永遠の子供であり、その姿は人間が現実には遁れることのできない老いから自由であるかのようで、実際にはそれを人間が演じているという事実は、舞台を拝見している時間の中では忘れ去られてしまう。

 鼓が設えられた一畳台の上での動きの自在さは 驚くべきものだし(実際には、面で視界が著しく制限された状態のはずなのだが、そうしたことは 微塵も感じさせない)、舞となれば、まるで重力から自由でありうるかのように舞台を軽やかに巡って、 時折響く足拍子も、能舞台の床に張られた透明な水平な膜が鼓となって妙音を響かせているかのようだ。

 金子先生の指摘される「藤戸」との共通性は、 水に沈められての死という点にまで及んでいるのだが、「藤戸」との類似はそこまでで、この能の後場において、彼の屍が沈んでいる筈の呂水の水は、盤渉調の青色の奔流によって「生命の水」と化するかのようだ。 追加された太鼓もまた、そうした流れの勢いの印象を強める。既に述べたように囃子の素晴らしさは、空前絶後という形容をしたくなる 程だったが、天鼓を舞へと誘うワキの謡もまた、シテを召喚するマントラのようだ。それに呼応する太鼓を伴う囃子によって流水のイメージが増幅され、波濤の砕けたしぶきが月光に照らされて青白く煌めくのを目にするかに感じられる。 常には西洋のクラシック音楽を聴くときに感じられる共感覚を、能の舞台でかくも鮮明に感じ取ったのは 初めてのことだった。

 楽を舞う天鼓の表情の豊かさ、充溢する喜びの感情は、圧倒的な囃子ともども見所に働きかけ、 会場全体がよろこびの波動によって満たされていく。無心に舞を舞う姿に涙せずにはおれないが、 その涙は音楽をこちらもまた子供の心に還って無心に享受するよろこびのそれであるという他ない。

 キリに至り、シテが舞台を廻るに至り、 見所に座していながらに眩暈のような感覚に襲われて、一体ここはどこなのか?自分は何を見ているのか? 何が幻想で何が現実なのかの区別がなくなっていくかのような感じに支配される。 「また寄りてうつつか夢か」というのは、そうした己の感覚を述べているのではないかと思える程に。「夢、幻となりにけり」で突然舞台が静止し、それまでの絢爛たる音響の坩堝から静寂へと切り替わる。見所は魔法にかかったように、しわぶき一つ立てずに静まり返ったままで、ようやく 地謡が席を立ち、囃子方が橋掛かりを渡って舞台を去る頃になって、我に返ったかのように何時に無く 大きな拍手が舞台を包む。

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 今回の上演が、例えば技術的にどうであったかというのを語るのは私には荷に余ることだが、 最後に幾つか、帰途に思い浮かべたことを記してこの感想の結びとしたい。

 冒頭、ワキが語る物語が、まるで物語の外部のナレーションのようだ、と先に記したが、 それに照応するように、実感としては、後場もまた物語の外部であり、物語を内側から 現世的な視点で眺めた場合には、鼓が鳴ったことで生じた幻想であるもの、まずもって王伯が見て、恐らくはその場に居た人間の共同幻想であったでろうものが、この作品そのものであること、 音楽の持つ呪術的な力が作品を支える原動力でありながら、同時に作品のテーマでもあるといったこの作品のユニークな構造を感じずにはいられなかった。

 一見したところ必然性に乏しく、有機的に機能していないかに思われる物語を支える因果もまた、 外側から眺めたとき、なぜ天鼓は死ななくてはならなかったのかという問いに対して、そもそもが天鼓の存在 そのものが、現世的な秩序、世の成行きを超越した側面を孕んでいることの結果として了解することが できようし、天からの授かりものとしての天鼓と彼を追うように天から降ってきた鼓の二重性もまた、イデアルで人間の耳には聴こえない「天球の音楽」(それを「聴く」ためには法則性を解き明かすための数学が必要とされる)としての音楽と、そうした音楽を化体し、人間に聴き取れるものとするメディアとしての楽器の持つ呪術性という観点から捉えることができるように思われるのである。

 それらは総じて、ジャンルの違いを超えて、メディアアートのような領域で追求されているテーマに そのまま通じているように思われる。そうした見方に立てば、能楽は時代を超え、 今日なお、最高度のポテンシャルを備えた最高級のメディアアートに他ならず、この日の演能は、その考えうる 究極の達成の一つであったというように思えてならないのである。

 そういう文脈において直ちに私が思い浮かべたのは、三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」を 初めとする「音楽」の根源を問い直す取り組みであった。例えば「天鼓」という作品の持つ、典拠の欠如という性格もまた。 不在の、架空の典拠を仮構し、「…という夢を見た。」というフレームで作品を括弧入れするという 三輪さんの批判的な姿勢に通じるものを読み取ることができるように思えるのである。そしてなにより少年の形象において、両者に通底するものを見ることができるのではないか。「天鼓」というのは、まさに「新しい時代」で、最後に自分の声で歌を歌うことができた「昇天少年」に他ならないではなかろうか。

  だがそれ以上に重要に思われるのは、「ありえたかもしれない」物語の創造が、まずもって死者の無念を 弔うためのものであること、そのことによって、メタレベルから出発しつつも階層を超えて、 「音楽」そのものとしての呪術性を獲得している点であろう。一見したところ現代の高度なテクノロジーを駆使しているかに見える三輪さんの作品がそうして姿勢において一貫していることは、その試みの射程を捉えるうえで極めて重要な点だと思うが、「天鼓」という作品もまた、典拠を仮構し、 死者の無念を弔いのための「音楽」というフレームを用意するという、ジャンルに対する自己言及的性、 メタな側面を持っていると同時に、それ自体が優れて「音楽」そのものでもあるという点において 著しい並行性を示しているように思われたのである。

 だけれども、それはあくまでも枠組に過ぎない。意図を最高度の実現にもたらすのは、演者の力に他ならないのだ。 それゆえ私がこの演能に接して最も強く感じ、深く納得したことは、プログラムに香川さん御自身が記された、この「天鼓」という作品に 寄せる愛着であり、作品の意図を実現するための太鼓の使用という判断の正しさであった。まさにこの日の演能は、 見所全体を圧倒する「舞う歓び」に満ちたものであり、それはまた、太鼓を伴う盤渉調の囃子によって 持ちうる最高のポテンシャルを実現したものであった。私自身は自分の能力の制限に応じて、 その全体のごく僅かを受けとめただけであるにせよ、見所にとって、この日の演能のような達成に 立ち会うこと以上の歓びがあるとは思えない。心からの感謝の気持を込めて、香川さんをはじめとする演者の方々に 御礼申上げることで感想の結びとする次第である。(2018.9.24 初稿公開)