2007年7月2日月曜日

「第31回喜香会」(喜多六平太記念能楽堂・平成19年7月1日)

能「班女」
シテ・梅野浩吉
ワキ・宝生欣哉
ワキツレ・大日方寛
ワキツレ・梅村昌功
アイ・山本則俊
笛・槻宅聡
小鼓・曽和正博
大鼓・佃良勝
後見・香川靖嗣・中村邦生
地謡・友枝昭世・塩津哲生・長島茂・谷大作・金子敬一郎・狩野了一・井上真也・佐々木多門

喜香会は香川靖嗣さんのお弟子さんの会。従ってこの「班女」のシテも職分の方ではない。だが、他のジャンルでもしばしば そうであるように、上演を拝見して感銘を受けるかどうかと職分か否かは原則的に言って無関係であり、今回、能についても そのことを認識したので、特に観能記録を残しておくことにする。観ている私の方が技術的な知識がないから、技術的な細部までは わからなかったが、自分が受けた印象から、きっと納得の舞台であったと思われる。後見の香川師もまた、満足のいった上演だったのでは なかろうか。

受けた感銘を言葉にするのはいつも難しいのが、何よりもまず、拝見して「班女」という能の素晴らしさを感じることができた。 つまり、私は謡い、舞われているのが職分でないことなどすっかり忘れて、端的に作品に向きあっていた。 謡も舞も、基本が非常にしっかりとされていて危うさのようなものが全く感じられず、そのために作品の世界に入り込めたのだと思う。 また何といっても職分と比べたとき、装束をつけて舞う回数の違いは歴然としているに違いないにもかからわず、全く違和感のないもの だったことも特筆される。

個別の場面を取り上げるのは適切でないかも知れないが、ワキツレが扇に言及した後の、班女の心の揺れが現われる部分は 特に印象に残った。姿を拝見しての印象ということでは、ワキ正面から拝見したせいもあって、特に着座したときの姿の美しさ― 特にシオル時の表情、そして勿論、最後の劇的な再会の後、扇をかかげて舞台を周って留めるまでの表情の晴れやかさが印象的だった。

ついつい職分の能を拝見したときと同じような感想の書き方になってしまうが、実際、職分の演能でも、全く退屈してしまうことも ―私のような観能の回数の少ないものですら―幾度と無くあったことを思えば、上手下手とプロかどうかは関係ない、とよく言われるのを 目の当たりにした気がする。長年にわたり積み重ねて来られのであろう研鑽の重みを感じた。

演能後、シテの方のお話を伺ったところ、お師匠様の真似をされているだけ、とご謙遜なさっておられたが、私には自ずと滲み 出てくる個性のようなものも明確に感じられた。何よりも、物語の構造の見通しが非常に良いこと、そして、謡のことばの 雰囲気の移り変わりのようなものが明確に感じられたことが印象に残っている。謡の詞章に関する深い理解なしには、恐らくそうした 表現は不可能なのではないかと思う。

実際、この能は構成が独特で、最後の劇的な再会に至るまでのプロセスをどのように組み上げていくかが難しいのではないかと 思うのだが、その点では以前にテレビで見た別の流儀の職分の演能よりも寧ろ今回の方が説得力があったように思えるほどだった。

アイ、ワキ、そして囃子や地謡との呼吸もあっていて、とてもバランスの良い舞台に感じられた。繰り返しになるが、本当に、シテが 職分でないことが信じられなかった。(囃子方、アイ、ワキ、そして地謡と錚々たる陣容だったが、一緒に演じられた職分の方々も 大変に力のこもった演奏で、充実した一番であったと想像する。とりわけクセより後の高潮は、職分の演能でもなかなか聴けない、 素晴らしいものだったと思う。

2007年6月4日月曜日

「第1回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成19年6月3日)

能「絵馬」女体
シテ・香川靖嗣
前ツレ(姥)・大村定
後ツレ(天女)・内田成信
後ツレ(力神)・塩津哲生
ワキ・宝生欣哉
ワキツレ・大日方寛
ワキツレ・御厨誠吾
アイ(蓬莱島の鬼)・野村扇丞・小笠原匡・山下浩一郎・吉住講・野村万蔵
笛・一噌幸弘
小鼓・大倉源次郎
大鼓・柿原崇志
太鼓・観世元伯
後見・内田安信・中村邦生
地謡・友枝昭世・出雲康雅・粟谷明生・谷大作・長島茂・狩野了一・友枝雄人・金子敬一郎

香川靖嗣さんの能を最初に拝見したのは、川崎能楽堂での「阿漕」だった。 このときの印象の強烈さは、今でもその場面と、それを経験したときの自分の身体的な反応を かなり克明に思い出せるほど圧倒的なものだった。 否、何を隠そう、私がまだまだ年月は浅く、回数も少ないながら、その後欠かさず能を拝見しつづけているのは、 そもそもこの香川さんの演能を拝見したのがきっかけなのである。優れた能が身体と意識の一番奥底まで届いて、 その印象は永続的なものであることをはっきりと認識したのもその時のことであった。
その後も出不精ゆえ数は多くないものの拝見する度に圧倒的な印象を受けてきていて、 その質の高さ、印象の強さでは飛びぬけていて、拝見してがっかりしたことは誇張でも何でもなく、 文字通り皆無である。これは一発勝負の実演としては驚異的なことだと思う。 残念ながら、このところのあわただしさと、一期一会の能ゆえのスケジュール調整の 難しさもあって、最近は拝見する機会を得ずにいたが、このたび個人の会を開始されるという ご案内をいただき、幸いスケジュールの調整もかない、6月3日、改装なった目黒の舞台に 足を運んだ。番組は「絵馬」女体、初めて拝見する曲だが、香川さんなら必ずや素晴らしい ものになるに違いないと思いつつ会場につくと、通路という通路が補助席で埋め尽くされんばかりで 二階席まで満席という盛会であった。

そして演奏もまた、そうした見所に満ちた期待を裏切らない、そればかりか期待をまたもや遥かに凌駕する 素晴らしいものだったと思う。当日一緒に拝見した満席の見所の方々にもご同意いただけると 確信しているが、これは圧倒的な経験だった。 私の貧しい経験でも、かつてやはり香川さんが舞われた「翁」もまたそうだったと記憶しているが、 今回の「脇能」でも神体をシテとする能の凄みとでもいうべきものに圧倒される経験をした。
能の印象を書くのはいつも困難だが、人間ではなく、神様を主題とする脇能の印象を、 その強度に相応しく、ありきたりの形容詞の羅列ではなく書き記すのは不可能事に近い。 それが宗教的な経験に近接することを思えば当然かも知れないが、こういう経験を言語に 翻訳するのはほとんどナンセンスにすら感じられる。以下、できるだけ感じたままに 印象を書きとめておきたい。当日ご一緒されなかった方にすれば、幾らなんでも大げさな、 と思われる表現があるかも知れないが、そうお感じになるのは私の力不足のせいで、 実際の印象はもっともっと豊かで、しかも同時に「自然」というほかないものだった。

この曲は脇能に相応しく、その物語の構造そのものは至ってシンプルなものであるが、 その骨組みの単純さにも関わらず、実はかなり凝った構造をもっていて、 場面転換がそのまま、時間的・空間的な層間の移行のような感じになっている。 それゆえ、囃子と地謡の機能は非常に重要なのだと思うが、幾つもの層よりなる 作品の構造を位取りの変化によって適切に提示する囃子、作品の結節点をなす 決定的な変容のありさまをこれまた的確に表現する地謡によって、最初から最後まで全く弛緩なく、 作品の多様性が明らかにされていく様は驚異の一言であった。
香川さんの老翁は、まずその構えに圧倒される。囃子が告げているように、既にこれは ただの老人ではないという雰囲気に満ちている。ツレである大村さんの姥との呼吸もぴったりで、 まさに一身同体の神の化身に相応しい。
印象に残った場面も枚挙に暇がないが、囃子では、颯爽としたワキの勅使の登場から、 シテ・ワキの老夫婦を呼び出す「真之一声」に切り替わるところの雰囲気の変化の鮮やかさと 「真之一声」の素晴らしさには息を呑んだ。 謡ではとりわけ前場の末尾、自分達が二柱の神であることを明かすところの劇的な変化には 身震いがしたほどで、その後、太鼓を伴う囃子にのって二柱の神が闇に消えてゆく様は、 荘厳の一語に尽きる。太鼓の最初の一撥の響きは忘れがたい。
居グセのあたりからすでに現実的な場所と時間の感覚は麻痺しているのだが、 前場の末尾に至っては具体的な時間も場所も消えうせて、神話的な時間、恐らく 今回のような素晴らしい演能によって、これまでも、そしてこれからも無限に反復されるで あろう「原的な経験」とでも呼ぶしかないような何かに立ち会っているように感じられた。

普通とは違ってこれまた囃子に呼び出される蓬莱の鬼のアイも好感の持てるもので、物語の緊張感は 途切れない。それゆえ客観的に見ればサービス満点の舞尽くしの後場もまた、演劇を 観ているという距離感は喪われてしまって、見所もまた、舞台の上のワキの意識に同化してしまう。
以前拝見した「三輪」のときもそうだったが(思えば、「三輪」の後場も取材している 物語は基本的には同じだし、女体であることも共通しているから、当然といえば 当然であるが)、香川さんがこうした神的な存在を演じるときの清浄さ、透明感は 奇跡的で、それを人間が演じていることが全く信じられない。 神舞は女体であれば、もう少しゆったりと艶やかにといった素人の予断はあっさり吹き飛び、 それは女体で舞うのがほとんど不可能ではないかと思われるほどのスケールと力と速度を 備えていて、それでいて女性的な優美さを些かも損なわない、私の想像を遥かに超えたものだった。
全く緩みというものがない動きから放射される気の流れの清冽さは、しばしば目をあけてそれを受け止めるのが 辛くなるほどのものだし、足拍子一つとっても、これはまさに両性具有の神の舞であって、 足して二で割るのではなく、両方が何事もないような自然さで両立しているのは驚異という他ない。 運びの荘重さと軽やかさの両立もそうで、地上にへばりついて生きている生物の体重というのを 感じさせず、重力の支配下で動いているをうっかり忘れてしまうようなものなのである。
それがはっきり感じられたのは、全曲の大詰め、岩戸から出て後、「高天の原に神とゞまつて」のところ、 能の抽象的な型の力の凄み、シテが両袖をまいて舞台をめぐると、そこには広大な空間が広がるのが 文字通り見える。今思い出そうと思ってみても、まさにシテは宙を舞っていて、能舞台は 見事に消えてしまっているのである。
後場のツレは神楽を舞う天女と、急の舞の後、岩戸を開く力神であるが、 内田茂信さんの天女の神楽は段が進むにつれ舞にも面の表情にも艶が増していくようであったのが印象的、 一方の塩津さんの力神の動きのキレの良さと力感は圧倒的で、後場は変化に富み、時間が経つのを 忘れるほどであった。

今回改めて感じたのであるが、演劇的な解釈とか、人間的な感情表現などでの誤魔化しが利かず、 能ならではの、能でなくては表現できないものが高い純度で提示されるという点で、脇能は能楽の持つ特性が 最も端的にあらわれるものに違いない。そして、とりわけ脇能に必要とされる人間離れした神々しさの表現において、 香川さん以上の舞手を思い浮かべるのは難しい。
それを思えば、個人の会の初回の演目に脇能を選ばれたのも、なるほどと納得がいくのである。 そして今回もまた、これまで拝見してきた香川さんの演能同様、演劇的な分かり易さとは異なった、 能ならではの凄みを私の様な素人にもはっきりとわからせる圧倒的な舞台であったと思う。

今年は更に是非拝見したいと思う番組が続くようであり、また、個人の会もまた既に次回以降の 演目が決まっていると伺っていて、すでに演能を拝見するのが待ち遠しい。 今後も都合がつく限り、香川さんの能を拝見していきたいと思っている。(2007.6.4記)

2004年11月20日土曜日

「国立能楽堂2004年11月定例公演」(国立能楽堂・平成16年11月19日)

能「三輪」
シテ・香川靖嗣
ワキ・殿田謙吉
アイ・野村万作
後見・中村邦生・佐々木多門
笛・杉市和
小鼓・福井啓次郎
大鼓・国川純
太鼓・助川治
地謡・塩津哲生・出雲康雅・大村定・長島茂・狩野了一・友枝雄人・内田成信・金子敬一郎

実は国立能楽堂自身の公演に行くのは初めて。とにかくチケットの入手の困難さに最初から敬遠していたのだが、 前回の喜多流自主公演に続きお誘いをうけて、香川靖嗣さんシテの能を拝見するために、仕事を終えて 国立能楽堂へ向かった。
仕事帰りにあわせた催事は多いが、これが実に行きにくい。スケジュールの調整もあり、コンディションの 問題もある。また、(これは開始時刻への配慮の結果なのだから仕方ないが)終演が遅く、翌日の心配まで しなくてはならない。実は今回も多忙な時期に重なったこともあり、くたくたの状態で能楽堂に辿り着き、 ちゃんと拝見できるものやら、心配した。
一方で、優れた上演は寧ろそうした疲れやコンディションの悪さをものともせず、寧ろ、鑑賞を通して 心身ともに甦った気持ちになることもしばしば経験する。そして今回の「三輪」もそうした素晴らしい 上演だった。

「三輪」は不思議と拝見する機会があって、今回が3回目。番囃子を含めれば4回目になるが、今回の上演の 印象は、人間離れした神々しさに尽きると思う。「三輪」という能は筋書きを追ってしまえば、話の脈絡や 登場する人間なり神なりのパーソナリティの一貫性の点で混乱した印象を抱きかねないのだが、 今回の上演では、それが全く気にならない、寧ろそうしたパーソナリティの変容や場面の転換が連想の糸を 辿って継起してゆく有様が如何にも説得的で、そうした点でも出色の演奏であったと思う。

細部の印象の克明さも枚挙に暇がない。前場の女の出ですでに醸し出される、どことなく秘密めいた雰囲気、 その女が庵の戸を開けて中に入る、その空間移動のリアリティ。漂う鬱蒼とした森の香り。ひんやりとした 秋の空気の感触。完璧な技術に裏打ちされた演技により、こうした印象がこの上もない明晰さで心に刻み 込まれる。ワキの殿田さんの玄賓僧都も素晴らしく、衣を介した、女の正体を巡っての女と僧都のやりとりの 面白さは格別だった。
息を呑んだのは、前場の終わり、女が消えていくところ。今回は脇正面から拝見したので、作り物の脇に 廻り込む演技は正面から見た場合と異なって、その効果を充分に発揮しそうにないのだが、何と、 気配が段々と薄れていき、まさに「かき消す如く失せ」ていくのがはっきりと感じられたのである。 塩津さん地頭の地謡のうまさもあって、魔法を目の当たりにしたような気持ちになった。
アイ狂言での野村万作さんと殿田さんのやりとりも素晴らしく、衣をめぐって玄賓が杉のもとに導かれる 過程が、その後の苧環に導かれて杉のもとに導かれるエピソードの反復なのだということがはっきりと わかる。有機的に後場を導く糸となっているように思われた。

後半、庵を出て杉のもとに辿り着いた玄賓の前に三輪の神が現われた瞬間も忘れがたい。後見の中村さんが 作り物の幕を下ろすと、光と空気の調子が一変したのである。それが面をかけた人間(しかも男性!)で あることを忘れさせるような圧倒的な光景。
その後、苧環のエピソードを介して、神楽、そして天の岩戸の物語と続く。後場のシテは人間離れしていて、 例えば神楽では、足拍子を踏む度に世界の秩序が形作られていく、混沌からの天地創造(けれどもそれは 神が創造するのではない。神のすがたを通して世界が自己組織化する創発と呼ぶのが相応しい)の過程のように 感じられた。こう書くと如何にも大袈裟だが、実際に見てしまえばそうとでも書くしか表現のしようがない。 例えばハイドンの天地創造はミルトンのテキストの翻案独訳に基づき、もっと大袈裟に、でも同時に 素朴で、ハイドンならではのあふれるような創意と機知に富んだ仕方で天地創造を描きだすが、 ここでは神の舞によりそれがずっと抽象的で洗練された仕方で、けれどももっと直接的に身体に 働きかけるような力をもって表現されている、というような印象を抱いたのである。
人と神、女体と男体、三輪の神と伊勢の神(天照大神)というパーソナリティの交代も気にならない。 いや、シテの演じる神体というのがそれ自体ある種の媒体であり、それを通じて世界自体が自己表現を 行っているような、そういう宇宙的なスケールすら感じられた。

シテ、ワキ、アイ、地謡の素晴らしさは既に述べたとおりだが、囃子もまた素晴らしく、その響きによって 体に溜まっている澱が濯がれていくような清冽な印象。特に、神楽に入る瞬間の助川さんの一撥は忘れ難い。 太鼓の音というのはもともと多分に呪術的なものがあるのだろうが、そこから全てが始まる最初の一撃、 「神楽のはじめ」に相応しい演奏だったと思う。

香川さんの演能は何時も期待に違わぬ素晴らしいものだが、今回の演奏はその中でも屈指の印象で、 今後も機会があれば是非、拝見したい。

2003年10月13日月曜日

「平成15年喜多流素謡・仕舞の会」(喜多六平太記念能楽堂・平成15年10月12日)

素謡「玉葛」
シテ・香川靖嗣
ワキ・大村定
地謡・友枝昭世・香川靖嗣・塩津哲生・内田安信・佐々木宗生・大村定・谷大作・佐藤章雄・友枝雄人・粟谷浩之

「玉葛」は能で2回観ているにも関わらず、今ひとつよくわからないと思っていた曲なのだが、やはり、 この演奏を聴いてようやく納得することができたように思える。この曲は、道具立て的には大変に美しく、 前半の紅葉の中を流れる川の風景などは大変に鮮やかなものだが、今回、特に印象的だったのが、 その「流れていく」という感じ、移動と移行の感覚だ。移動が水(川であったり海であったりする)と 結びつくのは自然なのだが、個人的に特に印象深かったのは、風景の中に雨が降り入ってくることに よる移ろいの感覚だ。この移行は(客観的なテキスト分析の立場からどうかは措くとして)観ている私の意識の 中では決定的なものに思えた。これは言葉にするのがとても難しいのだが、あえて言えば、為すすべの無さ、 寄る辺のなさ、流されているうちは眩しかった風景が、どこに辿り着くというわけでもなく、気づいたとき には変容していて、雨の中に立ちつくすしかなくなってしまった、けれども、引き返すことはできないし、 しない、流されていくしかない、という、落胆が混じった諦めのような感覚の表象のように思えたのだ。
上述の通り、私はこの演奏を聴いて、「玉葛」が往生を遂げることができずに苦しんでいる理由がようやく 自分なりに納得できたように感じられたのだが、それがその感覚とどこまで関係あるかどうかはわからない。 演奏が終わった後、私が連想したのは「求塚」だった。勿論、作品の質は全く異なるのだが、あの、選ぶことが できなかったというそれだけの理由で救いを絶たれた菟名日処女と、流れに棹差しているようで、結局は 紅葉もろとも雨に降り込められてしまうしかない玉葛とが、その受動性において重なるような気がしたのだ。 いずれについても仏教的な倫理観に基づくもので、今日的ではない、という考えもあるようだけれども、 私は必ずしもそうは思わない。こういう感じの違和感、寄る辺無さというのは、実はとても深い絶望に つながっているのではないかという気がして、心理的な機序としては自然であるようにすら思えるので。
今回の素謡は大変に説得力があったので、一度是非、香川さんのシテで「玉葛」観てみたい。

2003年1月6日月曜日

「喜多流職分会2003年1月自主公演能」(喜多六平太記念能楽堂・平成15年1月5日)

能「翁」
翁・香川靖嗣
三番叟・三宅右近
千歳・三宅右矩
後見・高林白牛口二・佐々木宗生
笛・松田弘之
小鼓・幸清次郎
小鼓・森澤勇司
小鼓・幸正昭
大鼓・安福建雄
地謡・内田安信・出雲康雅・長島茂・大村定・谷大作・佐藤章雄・友枝雄人・粟谷充雄・粟谷浩之

翁を未だ観る機会がなかったのだが、香川靖嗣さんの翁が観れるということで、喜多流自主公演の 初会に出かけた。
能の囃子を聴いていると体が温まり、凝りがほぐれていく感じを味わうことが時々ある。 翁はそうした意味では特別なもののような感じがする。何も無いところに舞が空間を形成し、 囃子が時間を生成するという感覚が非常に生々しい。どこか体の奥にしまわれていた記憶が 呼び起こされるような、こつこつとした外部感覚、それに反応する身体感覚を享受している ように思われる。具体的な状況を伴わないという点ではもっとも抽象的で、しかし、 それゆえもっとも自分の私的な領域の経験として享受することのできる、やはり翁は 特殊なものであると感じられた。

2002年11月25日月曜日

「喜多流職分会2002年11月自主公演能」(喜多六平太記念能楽堂・平成15年11月24日)

能「融」遊曲
シテ・香川靖嗣
ワキ・工藤和哉
アイ・三宅右矩
後見・佐々木宗生・内田安信
笛・一噌幸弘
小鼓・大倉源次郎
大鼓・柿原崇志
太鼓・金春惣右衛門
地謡・大島政允・出雲康雅・粟谷明生・梅津忠弘・松井彬・金子敬一郎・佐々木多門・大島輝久

「融」はシテの姿の美しさが何よりも印象的。月の光が満ち溢れるような透明感、高貴さの 中に時折ふと執着の相を垣間見せる融の大臣の表情に驚いた。終結で天上へと戻っていく様は 鮮やかで、ワキの僧の留拍子に思わず、今まで眼前に繰り広げられた光景への驚きの気持ちを 投影してしまった。

2002年8月28日水曜日

「平成14年喜多流素謡・仕舞の会」(喜多六平太記念能楽堂・平成14年8月27日)

仕舞「歌占」キリ
シテ・香川靖嗣
地謡・粟谷明生・中村邦生・長島茂・友枝雄人

キリの地獄の様を見せる描写の鮮やかさ。一つ一つの動作に篭められた気をはっきりと感じることの できる素晴らしい仕舞。無駄な部分、緩んだ部分がなく、最後まで一気にみせられるのはいつもの 事なのだが、本当に素晴らしい。