2007年12月20日木曜日

「喜多流職分会2007年12月自主公演能」(喜多六平太記念能楽堂・平成19年12月16日)

能「蝉丸」
シテ・香川靖嗣
ツレ・大村定
ワキ・高井松男
アイ・山本則俊
後見・内田安信・塩津圭介
笛・一噌庸二
小鼓・荒木賀光
大鼓・佃良勝
地謡・友枝昭世・出雲康雅・中村邦生・高林呻二・金子敬一郎・内田成信・粟谷充雄・井上真也

「蝉丸」を能として観るのは初めてだが、仕舞や能の一部の記録映像、写真などで見たことはあり、これもまた、 観たい能の代表格であった。それをこのような素晴らしい演者で拝見することが叶い、期待を膨らませて目黒の舞台へ。
この12月の公演はこれ一度きりの変則的な二部構成で、いつもと開演時間が異なる。事情があって指定席をとるのを 遠慮したため、整理券を貰うために早めに行くべくWebページを確認すると開演が30分遅くなっている。年間予定表は 未修正のまま。念のため少し早めに着いてみると貼り紙があり、整理券配布開始が更に15分遅くなっている。 実際には、その貼り紙より10分早く整理券配布が始まった。第一部が稀曲「道明寺」を含んでいて、 終演時刻の予測が難しかったものと忖度するが、当日は木枯らしが吹き荒ぶ天気で、日陰の風の通り道で行列を 作って動かずに待つのはなかなか辛いものがあった。

だが演能が始まってしまえば、そんなことはどうでも良くなってしまう。これもまた期待を上回る素晴らしい演能だった。
「蝉丸」はいわゆるタイトルロールがシテではなくツレである些か変則的な能で、この種の能の多くがそうであるように、 ツレの役割が非常に大きい。いわゆる両シテ物である。また、アイの博雅三位の役割は現行の形態では非常に簡単なものに なっているが、その背後にはいわゆる蝉丸伝説がこの能に至るまでの来歴が畳み込まれている。 ワキの清貫の重要性もそうで、ここではかなり明確な性格付けがされていて、総じてこの能では、シテは勿論、ツレ、ワキ、 アイの力量が観能の印象に大きく影響することは確かなことだと思う。
そして、その意味でもこの演能は非常に充実していたと思う。囃子も友枝さん地頭の謡も素晴らいものだった。
ワキは川崎での「弱法師」と同じく高井さんだったが、冒頭の印象的な「さだめなき世はなかなかに」から始まって、 自分に課された蝉丸を「捨てる」役目に苦悩する様子を見事に演じられていたと思う。大村さんの蝉丸は、 こちらも「弱法師」を連想させる品のある若々しい雰囲気で、それだけに一層、舞台の上で僧体になり、 清貫が去って一人になる様は痛ましい。(父帝には)「捨てられて」の一言に込められた絶望に、見所も胸が塞がれる思いがする。

そこに登場するのが山本則俊さんの博雅三位。則俊さんのアイは、拝見して3年経ってなお忘れがたい「藤戸」の送り込み、 最近では「班女」の口開けと、素晴らしい舞台に接しているが、今回もまた実に感動的で、作り物の藁屋に蝉丸を送り込む のを拝見して、再度目頭が熱くなるのを感じた。実際のアイの詞は簡略化され、劇の上での役割は藁屋に蝉丸を入れるだけ なのだが、それによって前場ではその末尾に至ってようやく詞でのみ言及される琵琶の存在を浮かび上がらせ、 後場に繋げる機能を担っているし、同時に、前場の救いようのない終わりに対して、これまた(直接言及されはしないが) 琵琶を媒介にして蝉丸が全く孤立した存在ではないことが示されるのである。思えば逆髪もまた、琵琶の音に 牽かれて蝉丸との邂逅を果たすのだ。
召されれば再びやって来ると述べて彼はその場を去るが、その約束は、恐らくは能全体の終曲の更に後にも続く筈なのだ。 逆髪と別れた蝉丸は、だが全くの孤独ではない。後述するが、終曲の別れは決して絶望の裡にあるのではないと感じられたのだが、 それを準備するものとして、博雅三位の存在があることを私は思わずにいられないのである。筋書き上は関係はないのだが、 劇の構成上、博雅三位の出現が、逆髪との邂逅を心理的に準備しているとすら言いうるかもしれない。 この能においてタイトルの蝉丸は、寧ろ様々な伝承の交差点、結節点と考えることができるくらい、色々な物語の記憶が 織り込まれているのだが、それらが有機的に結びついて一つの作品を構成している有様はまさに驚異的である。
そしてそうした豊かさを、山本則俊さんの詞と演技を通じて受け取ることができたように感じられたのである。殊更に演劇的に なるわけではなく、寧ろ、これまた長い伝統に根ざした高度な様式性に支えられた、無駄無く虚飾の無い詞と動きに 強い気持ちが込められることによってこそ、それが可能になっているように思われた。

シテである香川さん演じる逆髪は、後場でようやく登場する。だが、その登場によって物語の場がリセットされる だけでなく、その諧調までもそれまでとは全く異なってしまう。しかしとりわけ印象的だったのは、それだけでなく、 登場した逆髪に対する印象が、私が漠然とイメージしていた逆髪像ともまた異なったものだったことである。 逆髪は恐らく逢坂の関にまつわる「坂の神」に由来するのだろうが、それもあってか一般には、名乗りで自ら言及する 逆立つ髪の異様さ、そのマージナリティや異形性が強調されることが多いと思われる。
だが、この日の逆髪はまず出で立ち上、髪の異様さは示されない。彼女の異様さは外面的には手に持つ笹によって 示される。まるで笹こそが逆立つ髪の一部であるかのように。橋掛かり、一の松の辺りでの演技では、面の表情の変化が 印象的で、その変貌は詞や型付けとあいまって、本当の人間の表情のようにしか見えない。最後は「面白やな」と 達観に至る認識を述べるその過程では、その表情は悲しみや絶望、怒り、諦観といった様々な状態を巡っていくのだ。 そしてそうした気分の変動は、その後の絶望の表出、それに続き、最後に水に映る己の姿を見ての嘆きで終わる鮮烈な 道行にも引き継がれる。揺れ動く笹はそうした心境を反映するかのようである。
けれども基調はここでは何よりも、彼女の心の清澄さにあるように感じられた。装束もまた、詞に鏤められた流水の イメージとの呼応を考慮しての選択と感じられたが、それは彼女の流謫の身の上を示すと同時に、そうしたあてどのない道行の中で 示される「狂女なれど、心は清滝川と知るべし」の詞に集約されるような、心の清らかさ、透明感と強く響きあうように 思われる。だから道行に先立つ感情の噴出も、道行を閉じる嘆きもその清らかさを覆すようには見えなかった。とりわけ 水に映る己れを「あさましや」といい、己の狂気に言い及ぶその姿には、寧ろ醒めて冴え冴えとした自己認識すら 感じられたのである。ここに反対物の一致や価値の転倒を読み取るのはそんなに困難なことではなかろうが、 このようは演能に接すれば、そうした図式を抽象することに如何ほどの意味があるのかとさえ思われる。

そうした逆髪の心境に、琵琶の音に導かれての弟宮の蝉丸との邂逅が、もう一度大きな転調をもたらす。それを 象徴するのは、またしても笹であると私には感じられた。笹が逆髪の手から落ちる瞬間、彼女は正気に、坂神から 一人の女性に戻ったのだと感じられたのである。終曲では再び別れが訪れ、蝉丸は残り、逆髪は去ってゆく。 だが、私にはそれが元に戻ったようには感じられなかった。二人の心のそれぞれに非可逆的な変化が生じていたのでは、 邂逅は決して無ではなかったのではないかと、そのように思えた。
勿論、こうした感じ方は観ている私の心境を登場人物に投影したものに過ぎないかも知れない。実際、私は終曲で 自分が抱いていた感覚が何であるのかすら、正確に言い表す言葉を持たないのだ。だが、それは劈頭から 前場の末尾に至るあまりに痛々しい経緯からも、普通に抱かれている逆髪のイメージからも予想だにしなかった ものであり、それだけに一層、(感覚それ自体は静謐なものであったけれど)衝撃的だった。
「泣く泣く別れおわします」筈の終曲に、それにも関わらず私は、絶望とは異なる何かを感じたように 思う。それは少なくとも琵琶とともに庵の前に立つ蝉丸の心のどこかにあったように感じられるし、 こちらはずっと自信がないのだが、再び遠くに去ってゆく逆髪にもあったのではと思われてならないのだ。 いや、それは逆髪の心の裡にあったものの反映だったのではないだろうか。

というわけで、実のところ受けた印象の強さにも関わらず、今回私は自分が感じたものをまだ分析しきれて いない。私のような者でも、この蝉丸という作品が古来どれだけ広く深く論じられてきたかについては 仄聞しているが、私が実演に接して感じたのは、この能の持つ底知れぬ奥深さであったような気がする。 実に色々な解釈や見方を受け入れる作品なのではないかと思える一方、それは単純な分析や説明を 受け付けるようなものではなく、だからこそ議論が尽きないのかも知れないとさえ思われる。
いずれにしても今回の演能は非常に鮮烈な印象の、強い説得力のあるものだった。 そしてそれを拝見できたことが得難い経験であったことは確かだし、自分にとって価値が測り知れない 大きさを持つことは確かなことなのである。(2007.12.20)

2007年9月2日日曜日

「第80回川崎市定期能」(川崎能楽堂・平成19年9月1日)

能「弱法師」
シテ・香川靖嗣
ワキ・高井松男
アイ・吉住講
笛・松田弘之
小鼓・森澤勇司
大鼓・国川純
後見・友枝昭世・内田安信
地謡・粟谷能夫・長島茂・中村邦生・狩野了一・井上真也・友枝雄人

「弱法師」については、あまりにインパクトが強くて、言いたいことがたくさんあるのにうまく表現できないもどかしさを感じずにはいられない。 終演後、会場で、日頃お世話になっている方々にご挨拶したのだが、余韻が残ってしまっていて、気持ちの切り替えが完全には出来ずに、 何か失礼があったのではないかと気になるほどの強烈な印象が残った。
能の素晴らしい演奏というのは、見る人間の心の非常に奥底まで射通すような、ほとんど「破壊的」と呼びたくなるほどの鋭さを持っているようで、 恐らくは容易に消し去ることができないような印象が残ることがあるのだが、今回の演奏もまさにそうした力を持ったものだった。こうして書いている今でも 鮮明に「見るぞとよ」と思わず語って差し出した手の先へと踏み出す弱法師の姿が、そしてまたその数分後には転び、倒れて嘲られ、杖を折れよとばかりに地に 叩きつける姿が思い浮かぶ。そして己を恥じる素振りの哀しさもまた。勿論、それらを穏やかに冷静に思い出すことなどはできず、その時の自分の反応もまた 同時に反芻することになる。

この能の前半は、視覚を奪われた主人公に相応しく、梅の香りが印象的なのだが、今回の上演ではその香りよりも寧ろ、香りを頼りに己の袖に落ちかかる 見えない梅の花びらを見る姿が痛ましい。杖の使い方も、杖を追うようにして、けれども機敏に聴こえるものや気配に反応する動きの鋭さもまた、 そうした「見えぬものを見ようとする」主人公の意志のようなものを感じさせる。立ち上がる動作の敏捷さは特に印象的で、私は主人公の姿に或る種の 高貴さを、そして、見ようによっては不相応な驕慢さにさえ近づく矜持のようなものを感じずにはいられなかった。その顔貌もまた寧ろ超然として、まるで 気配に一心に耳を澄ますかのような風情があり、そしてそれだけに一層、その後姿には悲哀感が漂うのである。
四天王寺の由来の語りの部分もまた印象的で、坐って全く動かないシテの内面の感情がその語りとともに高まっていくのがわかる。それだけにその段の 最後に一度きり両手を胸元で重ね合わせるような所作に籠められた力に圧倒される。この部分があってこそ、あの日想観での感情の迸りが可能になるのだ。
前半、そのようにして主人公の裡に溜め込まれた力が、後半では日想観によって激しく外に向かって放たれる。「見るぞとよ」という言葉に偽りはないのだ。 彼にとっては、心の裡に広がるイメージこそが現実なのだ。父とは気づかずに交わす会話にも自信が溢れる。そのすぐ後の顛末を知る者は、その誇りと 確信に満ちた姿を見て、かえって胸がつぶれるような悲しみに捉われてしまう。
だが、今回の上演を拝見して感じたのは、転び、嘲られて現実に還った俊徳は、悔しさを、憤りを感じはしても、その現実に完全に絶望しきった わけではないのでは、ということだ。立ち上がる身のこなしの素早さも、否、伏して嘆き、怒りに震えて叩きつけられる杖の激しさも、己の姿を恥じる 姿にさえ、矜持を喪わない高貴な心が感じられるように思えてならなかった。父と再会して逃げるのも、絶望ゆえではなく、己の矜持を守るためと 感じられたのだ。それゆえ、最後で再会を喜ぶ父を残して、アイに送り込まれはするものの、決して父とともにではなく、一人舞台を去っていく姿にも、 再会の喜びではなく、しかし、自分が恃みとしてきた世界が破壊された絶望だけでもない何かが残っているように思われた。
演者がどのような解釈で演じられたのかはわからないし、私の上のような印象は正しい見方ではないかも知れないが、私には、この物語が単純な父子 再会の物語にも、あるいは一人の若者が敗退していく過程とも感じられなかった。そうした個人的なものを超えた何かが、神話的とでも言いたくなるような 象徴的なかたちで示されているように思われたのだ。
(この上演を拝見して思ったことは実は上記に尽きるものではないのだが、それらは最早、観賞の記録でもないし、作品の上演の感想ですらないもので、 私個人の文脈の拘束が強く、端的に言って極めて主観的なものであるため、[付記]として別にまとめることにした。それは上演の直接の記録としては 意味を為さないだろうが、にもかからわず、紛れも無く、この「弱法師」の上演に触発されたものには違いないのである。内容上、客観的な価値には欠けると 思うが、このようなことを考えさせるような能の上演だったのだ、という事実を残す意味で記録しておくこととする。興味がある方はご一読いただければ 幸いである。)

2番とも地謡と囃子は同じ演者なのだが、粟谷能夫さん地頭の地謡は、いつものように謡の内容を克明に浮び上がらせる解釈と、隅々までおろそかに ならない徹底したリアリゼーションが両立した素晴らしいもので、とりわけ前場における由来や縁起を語る部分の鮮やかさ、そして後場の場面の展開の 巧みさが際立っていた。特に「弱法師」における四天王寺の縁起の語りの部分の面白さは格別で、しかもそれがシテの心理的なプロセスとして日想観へと 有機的に繋がっていくことが明確に感じられた点が特に印象的だった。
これまたいつものように鮮やかに場面を定位させてしまう松田さんの笛は、特に今回、雰囲気も季節も異なる2曲を続けて聴くことができたため、 その対比が一層鋭く印象に残った。とにかくその音色の多彩さは圧倒的。国川さんの大鼓は「六浦」における鄙びた音色、そして何より「弱法師」後半の 高潮が圧倒的で、森澤さんの小鼓とともに曲調の違いに応じた表現の変化が印象に残った。 太鼓は「六浦」のみだが、この曲の太鼓は多くの太鼓物とは異なって、しなやかさ、かろやかさ、そして鄙びた雰囲気が要求される点が 特徴的だと思うのだが、金春国和さんの太鼓はそういった雰囲気が出ていたように思われる。

2番とも印象深い素晴らしい上演だったが、個人的には特に「弱法師」を拝見したのは近年にない圧倒的な経験だった。 これほどまでに心を揺さぶられる経験ができたことに対して、香川さんをはじめとする演者の方々、そして久しぶりにこの催しにお誘い いただいた方に対して感謝を申し上げたい。


[付記]:「弱法師」を見て考えたこと

能には、いわゆる「芸尽くし」のような系統の話があって、演じることの二重性が現れること自体はめずらしいことではないかも知れない、 一方で「物狂い」の系統というのもあって、この話はその両方の雰囲気を持っているように思われるが、常にはそうした枠組みをいわば「口実」として 使うことで、舞を中核とした作品が形作られていたのに対して、観世元雅作といわれるこの「弱法師」では、ベクトルは全く逆の方向を向いているようだ。 寧ろ、筋書きや物語の構造の方が「口実」で、それを通して、神話的とでもいうべき形象が象徴的な形で提示されていたように感じられたのである。
だが、本編の感想でも記したように、しばしばいわれるような父子の見かけの再会の背後にあるすれ違い、そして己の信仰を否定された若者の 絶望をそこに確認したというわけでもない。私が今回の上演で感じ取ったのは、あのような現実による手痛い否定にあってなお、俊徳のうちには 何かが決定的には損なわれずに残ったのではないかということ、矜持も誇りも、根こそぎ喪われたわけではないのでは、ということだ。否、それよりも それが最早一個人の感情や他者との関係の問題、個別的な経緯に原因をもつ状況の深刻さを超え出て、俊徳の悲劇のかたちをとって、もっと普遍的な ことがらが象徴的に表現されているように感じられたのである。

些か突飛な連想かも知れないが、この「弱法師」を拝見して、私は彼が、想像力の極限すれすれまで飛翔しつつ、「物狂い」の裡に、シンボルに よる壮大な虚の世界を創り上げる「芸術家」に限りなく近い存在であるように感じられた。要するに、ここでは逆に作品の内側から、「能」を演じたり 拝見したりすることを含めた人間の営みの方が照射され、それゆえ弱法師の「芸」や「物狂い」を単純に楽しむことは最早できないように感じられるのである。
さらにまた、偶々、ランガーの「感情と形式」を読んでいる最中であったということもあって、寧ろ彼の悲劇は、シンボルの体系の中で生き、 虚の世界を産み出すことを宿命づけられた人間という種の宿命そのものなのではないか、この作品の持つ力の大きさは、 表面上の物語における悲劇を超えた、より普遍的な宿命を浮び上がらせている点にあるのではないかとすら感じられたのである。

と同時に、日想観の部分の弱法師の姿を見て、些か突飛な連想ではあるのだが、時代も環境も異なる実在のある人物のことを思い浮かべずにはいられなかった。 その人物の名はヘルダーリン。狂気に近づきながら、見ることのない古代ギリシアの世界への憧憬のうちに、「多島海(エーゲ海)」「パトモス島」といった壮大な 詩篇を産み出した詩人。ヘルダーリンは盲目ではなかったけれど、弱法師の憧れる西方の極楽、心のうちに広がる極楽へと通じる、たくさんの島々が 浮かぶ海の風景は、現実にはギリシアを訪れたことすらなかったヘルダーリンの空想裡の古代ギリシア、エーゲ海と響きあうように思われたのだ。 勿論これは単なる連想に過ぎず、学問的な比較検討にたえるようなものでは全くない。だがしかし、一方はそれ自体虚構である物語の主人公、 もう一方は実在の人物ではあるけれど、その存在様態の一面において響きあうものを感じたのである。その純粋さゆえに、現実から残酷で苦々しい しっぺ返しを蒙ることも含めて、両者の存在の様態のある部分に通底するものを感じずにはいられない。

こんなことを考えるのは、もはや能を拝見しての感想からはあまりに逸脱してしまってるし、「弱法師」という作品の上演の感想としては不適切で、 見当外れであり、演じられた方にとっては寧ろ迷惑なことかも知れないが、見えもしないものを見えると叫んだ俊徳を嘲笑うことは私にはできないと思った。 否、私は彼の表情に侵しがたい「高貴」さすら感じたのである。
彼を嘲笑った人間だって、実は同じように「虚の世界」を持たずには生きていられず、やはり時折は現実に冷水を浴びせかけられていはしまいか。 さらにまた、終幕でアイに送込まれて橋掛かりを去っていく彼に気づいてか気づかずか、扇を開いて再会を喜ぶ父親が、彼以上に「盲目」でないと 言いうるだろうか。そもそも終幕は、父親が「昼間は他人の視線が気になるから」という理由で名乗るのを遅らせたがゆえに、夜の闇の裡にある筈なのだ。 多くの人が語るように、この結末は形式的には再会の物語であるにも関わらず、それは見かけの上、あるいは父親の意識の裡でのことに過ぎない。 そもそも讒言に耳を貸して、彼から視覚を奪ったのは、父親自身の「盲目性」のせいではなかったか。
視覚を奪われたゆえにか、見えるものには聴こえないものと会うことができた琵琶法師が、怪異の側にあるものとして怖れられ、「見ることのできる」和尚の 無意識の作為によってついには耳すら奪われてしまう耳無し芳一の物語と同様、俊徳の父親は、再会できたと思い込むことで俊徳から彼が生きるために 必要だった最後の領分すら奪ってしまうことにならなかったと誰が言えるだろうか。(「怪談」は、視覚に象徴される近代的な意識から眺めた時の展望に過ぎない。 それは夢幻能の世界とは何と異質なことか。それを思えば、観世元雅の「弱法師」には、能という形式そのものを内側から崩壊させかねない、そうした 近代的な意識の介入があると言えるのかもしれない。)

だから、後期詩篇を産み出したヘルダーリンのその後、チュービンゲンの指物師ツィンマーが提供した「塔」での長い薄明の年月が、 原因は違ったものであったとしても、ここでも再び、父と再会した俊徳のその後の運命と重なるとしても不思議はない。確かに現実には俊徳その人は 敗残し、もはや再び心の眼で「見る」ことはないのかも知れない。
だが、にも関わらず、俊徳の物語そのものは、残り、語り継がれていく、そして彼が見た「虚の世界」もまた、このような素晴らしい舞台を通じて、 何もない舞台の上で甦るのだ。「見るぞとよ」という俊徳の確信は、間違いではなかったし、それはずっとずっと平凡な私のような人間にとっても、 やはり必要となる瞬間のある何かなのだと思う。ヘルダーリンの詩篇が不滅であるように、俊徳が心の裡で紛れも無く見た夕陽の向こうにある ものも、不滅であるに違いない。俊徳は虚実を取り違えた、という冷ややかで客観的な認識は正しい。だが、俊徳のその「誤り」は、人間が 生きていくうえで避けることのできないものではないのか。だから俊徳の物語は彼個人の悲劇ではない。それは普遍的なものであり、それゆえ その姿は時代を超えて多くの人の心を打つのではなかろうか。
(この項未定稿, 2007.9.1/2/3)

2007年7月2日月曜日

「第31回喜香会」(喜多六平太記念能楽堂・平成19年7月1日)

能「班女」
シテ・梅野浩吉
ワキ・宝生欣哉
ワキツレ・大日方寛
ワキツレ・梅村昌功
アイ・山本則俊
笛・槻宅聡
小鼓・曽和正博
大鼓・佃良勝
後見・香川靖嗣・中村邦生
地謡・友枝昭世・塩津哲生・長島茂・谷大作・金子敬一郎・狩野了一・井上真也・佐々木多門

喜香会は香川靖嗣さんのお弟子さんの会。従ってこの「班女」のシテも職分の方ではない。だが、他のジャンルでもしばしば そうであるように、上演を拝見して感銘を受けるかどうかと職分か否かは原則的に言って無関係であり、今回、能についても そのことを認識したので、特に観能記録を残しておくことにする。観ている私の方が技術的な知識がないから、技術的な細部までは わからなかったが、自分が受けた印象から、きっと納得の舞台であったと思われる。後見の香川師もまた、満足のいった上演だったのでは なかろうか。

受けた感銘を言葉にするのはいつも難しいのが、何よりもまず、拝見して「班女」という能の素晴らしさを感じることができた。 つまり、私は謡い、舞われているのが職分でないことなどすっかり忘れて、端的に作品に向きあっていた。 謡も舞も、基本が非常にしっかりとされていて危うさのようなものが全く感じられず、そのために作品の世界に入り込めたのだと思う。 また何といっても職分と比べたとき、装束をつけて舞う回数の違いは歴然としているに違いないにもかからわず、全く違和感のないもの だったことも特筆される。

個別の場面を取り上げるのは適切でないかも知れないが、ワキツレが扇に言及した後の、班女の心の揺れが現われる部分は 特に印象に残った。姿を拝見しての印象ということでは、ワキ正面から拝見したせいもあって、特に着座したときの姿の美しさ― 特にシオル時の表情、そして勿論、最後の劇的な再会の後、扇をかかげて舞台を周って留めるまでの表情の晴れやかさが印象的だった。

ついつい職分の能を拝見したときと同じような感想の書き方になってしまうが、実際、職分の演能でも、全く退屈してしまうことも ―私のような観能の回数の少ないものですら―幾度と無くあったことを思えば、上手下手とプロかどうかは関係ない、とよく言われるのを 目の当たりにした気がする。長年にわたり積み重ねて来られのであろう研鑽の重みを感じた。

演能後、シテの方のお話を伺ったところ、お師匠様の真似をされているだけ、とご謙遜なさっておられたが、私には自ずと滲み 出てくる個性のようなものも明確に感じられた。何よりも、物語の構造の見通しが非常に良いこと、そして、謡のことばの 雰囲気の移り変わりのようなものが明確に感じられたことが印象に残っている。謡の詞章に関する深い理解なしには、恐らくそうした 表現は不可能なのではないかと思う。

実際、この能は構成が独特で、最後の劇的な再会に至るまでのプロセスをどのように組み上げていくかが難しいのではないかと 思うのだが、その点では以前にテレビで見た別の流儀の職分の演能よりも寧ろ今回の方が説得力があったように思えるほどだった。

アイ、ワキ、そして囃子や地謡との呼吸もあっていて、とてもバランスの良い舞台に感じられた。繰り返しになるが、本当に、シテが 職分でないことが信じられなかった。(囃子方、アイ、ワキ、そして地謡と錚々たる陣容だったが、一緒に演じられた職分の方々も 大変に力のこもった演奏で、充実した一番であったと想像する。とりわけクセより後の高潮は、職分の演能でもなかなか聴けない、 素晴らしいものだったと思う。

2007年6月4日月曜日

「第1回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成19年6月3日)

能「絵馬」女体
シテ・香川靖嗣
前ツレ(姥)・大村定
後ツレ(天女)・内田成信
後ツレ(力神)・塩津哲生
ワキ・宝生欣哉
ワキツレ・大日方寛
ワキツレ・御厨誠吾
アイ(蓬莱島の鬼)・野村扇丞・小笠原匡・山下浩一郎・吉住講・野村万蔵
笛・一噌幸弘
小鼓・大倉源次郎
大鼓・柿原崇志
太鼓・観世元伯
後見・内田安信・中村邦生
地謡・友枝昭世・出雲康雅・粟谷明生・谷大作・長島茂・狩野了一・友枝雄人・金子敬一郎

香川靖嗣さんの能を最初に拝見したのは、川崎能楽堂での「阿漕」だった。 このときの印象の強烈さは、今でもその場面と、それを経験したときの自分の身体的な反応を かなり克明に思い出せるほど圧倒的なものだった。 否、何を隠そう、私がまだまだ年月は浅く、回数も少ないながら、その後欠かさず能を拝見しつづけているのは、 そもそもこの香川さんの演能を拝見したのがきっかけなのである。優れた能が身体と意識の一番奥底まで届いて、 その印象は永続的なものであることをはっきりと認識したのもその時のことであった。
その後も出不精ゆえ数は多くないものの拝見する度に圧倒的な印象を受けてきていて、 その質の高さ、印象の強さでは飛びぬけていて、拝見してがっかりしたことは誇張でも何でもなく、 文字通り皆無である。これは一発勝負の実演としては驚異的なことだと思う。 残念ながら、このところのあわただしさと、一期一会の能ゆえのスケジュール調整の 難しさもあって、最近は拝見する機会を得ずにいたが、このたび個人の会を開始されるという ご案内をいただき、幸いスケジュールの調整もかない、6月3日、改装なった目黒の舞台に 足を運んだ。番組は「絵馬」女体、初めて拝見する曲だが、香川さんなら必ずや素晴らしい ものになるに違いないと思いつつ会場につくと、通路という通路が補助席で埋め尽くされんばかりで 二階席まで満席という盛会であった。

そして演奏もまた、そうした見所に満ちた期待を裏切らない、そればかりか期待をまたもや遥かに凌駕する 素晴らしいものだったと思う。当日一緒に拝見した満席の見所の方々にもご同意いただけると 確信しているが、これは圧倒的な経験だった。 私の貧しい経験でも、かつてやはり香川さんが舞われた「翁」もまたそうだったと記憶しているが、 今回の「脇能」でも神体をシテとする能の凄みとでもいうべきものに圧倒される経験をした。
能の印象を書くのはいつも困難だが、人間ではなく、神様を主題とする脇能の印象を、 その強度に相応しく、ありきたりの形容詞の羅列ではなく書き記すのは不可能事に近い。 それが宗教的な経験に近接することを思えば当然かも知れないが、こういう経験を言語に 翻訳するのはほとんどナンセンスにすら感じられる。以下、できるだけ感じたままに 印象を書きとめておきたい。当日ご一緒されなかった方にすれば、幾らなんでも大げさな、 と思われる表現があるかも知れないが、そうお感じになるのは私の力不足のせいで、 実際の印象はもっともっと豊かで、しかも同時に「自然」というほかないものだった。

この曲は脇能に相応しく、その物語の構造そのものは至ってシンプルなものであるが、 その骨組みの単純さにも関わらず、実はかなり凝った構造をもっていて、 場面転換がそのまま、時間的・空間的な層間の移行のような感じになっている。 それゆえ、囃子と地謡の機能は非常に重要なのだと思うが、幾つもの層よりなる 作品の構造を位取りの変化によって適切に提示する囃子、作品の結節点をなす 決定的な変容のありさまをこれまた的確に表現する地謡によって、最初から最後まで全く弛緩なく、 作品の多様性が明らかにされていく様は驚異の一言であった。
香川さんの老翁は、まずその構えに圧倒される。囃子が告げているように、既にこれは ただの老人ではないという雰囲気に満ちている。ツレである大村さんの姥との呼吸もぴったりで、 まさに一身同体の神の化身に相応しい。
印象に残った場面も枚挙に暇がないが、囃子では、颯爽としたワキの勅使の登場から、 シテ・ワキの老夫婦を呼び出す「真之一声」に切り替わるところの雰囲気の変化の鮮やかさと 「真之一声」の素晴らしさには息を呑んだ。 謡ではとりわけ前場の末尾、自分達が二柱の神であることを明かすところの劇的な変化には 身震いがしたほどで、その後、太鼓を伴う囃子にのって二柱の神が闇に消えてゆく様は、 荘厳の一語に尽きる。太鼓の最初の一撥の響きは忘れがたい。
居グセのあたりからすでに現実的な場所と時間の感覚は麻痺しているのだが、 前場の末尾に至っては具体的な時間も場所も消えうせて、神話的な時間、恐らく 今回のような素晴らしい演能によって、これまでも、そしてこれからも無限に反復されるで あろう「原的な経験」とでも呼ぶしかないような何かに立ち会っているように感じられた。

普通とは違ってこれまた囃子に呼び出される蓬莱の鬼のアイも好感の持てるもので、物語の緊張感は 途切れない。それゆえ客観的に見ればサービス満点の舞尽くしの後場もまた、演劇を 観ているという距離感は喪われてしまって、見所もまた、舞台の上のワキの意識に同化してしまう。
以前拝見した「三輪」のときもそうだったが(思えば、「三輪」の後場も取材している 物語は基本的には同じだし、女体であることも共通しているから、当然といえば 当然であるが)、香川さんがこうした神的な存在を演じるときの清浄さ、透明感は 奇跡的で、それを人間が演じていることが全く信じられない。 神舞は女体であれば、もう少しゆったりと艶やかにといった素人の予断はあっさり吹き飛び、 それは女体で舞うのがほとんど不可能ではないかと思われるほどのスケールと力と速度を 備えていて、それでいて女性的な優美さを些かも損なわない、私の想像を遥かに超えたものだった。
全く緩みというものがない動きから放射される気の流れの清冽さは、しばしば目をあけてそれを受け止めるのが 辛くなるほどのものだし、足拍子一つとっても、これはまさに両性具有の神の舞であって、 足して二で割るのではなく、両方が何事もないような自然さで両立しているのは驚異という他ない。 運びの荘重さと軽やかさの両立もそうで、地上にへばりついて生きている生物の体重というのを 感じさせず、重力の支配下で動いているをうっかり忘れてしまうようなものなのである。
それがはっきり感じられたのは、全曲の大詰め、岩戸から出て後、「高天の原に神とゞまつて」のところ、 能の抽象的な型の力の凄み、シテが両袖をまいて舞台をめぐると、そこには広大な空間が広がるのが 文字通り見える。今思い出そうと思ってみても、まさにシテは宙を舞っていて、能舞台は 見事に消えてしまっているのである。
後場のツレは神楽を舞う天女と、急の舞の後、岩戸を開く力神であるが、 内田茂信さんの天女の神楽は段が進むにつれ舞にも面の表情にも艶が増していくようであったのが印象的、 一方の塩津さんの力神の動きのキレの良さと力感は圧倒的で、後場は変化に富み、時間が経つのを 忘れるほどであった。

今回改めて感じたのであるが、演劇的な解釈とか、人間的な感情表現などでの誤魔化しが利かず、 能ならではの、能でなくては表現できないものが高い純度で提示されるという点で、脇能は能楽の持つ特性が 最も端的にあらわれるものに違いない。そして、とりわけ脇能に必要とされる人間離れした神々しさの表現において、 香川さん以上の舞手を思い浮かべるのは難しい。
それを思えば、個人の会の初回の演目に脇能を選ばれたのも、なるほどと納得がいくのである。 そして今回もまた、これまで拝見してきた香川さんの演能同様、演劇的な分かり易さとは異なった、 能ならではの凄みを私の様な素人にもはっきりとわからせる圧倒的な舞台であったと思う。

今年は更に是非拝見したいと思う番組が続くようであり、また、個人の会もまた既に次回以降の 演目が決まっていると伺っていて、すでに演能を拝見するのが待ち遠しい。 今後も都合がつく限り、香川さんの能を拝見していきたいと思っている。(2007.6.4記)