能「蝉丸」
シテ・香川靖嗣
ツレ・大村定
ワキ・高井松男
アイ・山本則俊
後見・内田安信・塩津圭介
笛・一噌庸二
小鼓・荒木賀光
大鼓・佃良勝
地謡・友枝昭世・出雲康雅・中村邦生・高林呻二・金子敬一郎・内田成信・粟谷充雄・井上真也
「蝉丸」を能として観るのは初めてだが、仕舞や能の一部の記録映像、写真などで見たことはあり、これもまた、
観たい能の代表格であった。それをこのような素晴らしい演者で拝見することが叶い、期待を膨らませて目黒の舞台へ。
この12月の公演はこれ一度きりの変則的な二部構成で、いつもと開演時間が異なる。事情があって指定席をとるのを
遠慮したため、整理券を貰うために早めに行くべくWebページを確認すると開演が30分遅くなっている。年間予定表は
未修正のまま。念のため少し早めに着いてみると貼り紙があり、整理券配布開始が更に15分遅くなっている。
実際には、その貼り紙より10分早く整理券配布が始まった。第一部が稀曲「道明寺」を含んでいて、
終演時刻の予測が難しかったものと忖度するが、当日は木枯らしが吹き荒ぶ天気で、日陰の風の通り道で行列を
作って動かずに待つのはなかなか辛いものがあった。
だが演能が始まってしまえば、そんなことはどうでも良くなってしまう。これもまた期待を上回る素晴らしい演能だった。
「蝉丸」はいわゆるタイトルロールがシテではなくツレである些か変則的な能で、この種の能の多くがそうであるように、
ツレの役割が非常に大きい。いわゆる両シテ物である。また、アイの博雅三位の役割は現行の形態では非常に簡単なものに
なっているが、その背後にはいわゆる蝉丸伝説がこの能に至るまでの来歴が畳み込まれている。
ワキの清貫の重要性もそうで、ここではかなり明確な性格付けがされていて、総じてこの能では、シテは勿論、ツレ、ワキ、
アイの力量が観能の印象に大きく影響することは確かなことだと思う。
そして、その意味でもこの演能は非常に充実していたと思う。囃子も友枝さん地頭の謡も素晴らいものだった。
ワキは川崎での「弱法師」と同じく高井さんだったが、冒頭の印象的な「さだめなき世はなかなかに」から始まって、
自分に課された蝉丸を「捨てる」役目に苦悩する様子を見事に演じられていたと思う。大村さんの蝉丸は、
こちらも「弱法師」を連想させる品のある若々しい雰囲気で、それだけに一層、舞台の上で僧体になり、
清貫が去って一人になる様は痛ましい。(父帝には)「捨てられて」の一言に込められた絶望に、見所も胸が塞がれる思いがする。
そこに登場するのが山本則俊さんの博雅三位。則俊さんのアイは、拝見して3年経ってなお忘れがたい「藤戸」の送り込み、
最近では「班女」の口開けと、素晴らしい舞台に接しているが、今回もまた実に感動的で、作り物の藁屋に蝉丸を送り込む
のを拝見して、再度目頭が熱くなるのを感じた。実際のアイの詞は簡略化され、劇の上での役割は藁屋に蝉丸を入れるだけ
なのだが、それによって前場ではその末尾に至ってようやく詞でのみ言及される琵琶の存在を浮かび上がらせ、
後場に繋げる機能を担っているし、同時に、前場の救いようのない終わりに対して、これまた(直接言及されはしないが)
琵琶を媒介にして蝉丸が全く孤立した存在ではないことが示されるのである。思えば逆髪もまた、琵琶の音に
牽かれて蝉丸との邂逅を果たすのだ。
召されれば再びやって来ると述べて彼はその場を去るが、その約束は、恐らくは能全体の終曲の更に後にも続く筈なのだ。
逆髪と別れた蝉丸は、だが全くの孤独ではない。後述するが、終曲の別れは決して絶望の裡にあるのではないと感じられたのだが、
それを準備するものとして、博雅三位の存在があることを私は思わずにいられないのである。筋書き上は関係はないのだが、
劇の構成上、博雅三位の出現が、逆髪との邂逅を心理的に準備しているとすら言いうるかもしれない。
この能においてタイトルの蝉丸は、寧ろ様々な伝承の交差点、結節点と考えることができるくらい、色々な物語の記憶が
織り込まれているのだが、それらが有機的に結びついて一つの作品を構成している有様はまさに驚異的である。
そしてそうした豊かさを、山本則俊さんの詞と演技を通じて受け取ることができたように感じられたのである。殊更に演劇的に
なるわけではなく、寧ろ、これまた長い伝統に根ざした高度な様式性に支えられた、無駄無く虚飾の無い詞と動きに
強い気持ちが込められることによってこそ、それが可能になっているように思われた。
シテである香川さん演じる逆髪は、後場でようやく登場する。だが、その登場によって物語の場がリセットされる
だけでなく、その諧調までもそれまでとは全く異なってしまう。しかしとりわけ印象的だったのは、それだけでなく、
登場した逆髪に対する印象が、私が漠然とイメージしていた逆髪像ともまた異なったものだったことである。
逆髪は恐らく逢坂の関にまつわる「坂の神」に由来するのだろうが、それもあってか一般には、名乗りで自ら言及する
逆立つ髪の異様さ、そのマージナリティや異形性が強調されることが多いと思われる。
だが、この日の逆髪はまず出で立ち上、髪の異様さは示されない。彼女の異様さは外面的には手に持つ笹によって
示される。まるで笹こそが逆立つ髪の一部であるかのように。橋掛かり、一の松の辺りでの演技では、面の表情の変化が
印象的で、その変貌は詞や型付けとあいまって、本当の人間の表情のようにしか見えない。最後は「面白やな」と
達観に至る認識を述べるその過程では、その表情は悲しみや絶望、怒り、諦観といった様々な状態を巡っていくのだ。
そしてそうした気分の変動は、その後の絶望の表出、それに続き、最後に水に映る己の姿を見ての嘆きで終わる鮮烈な
道行にも引き継がれる。揺れ動く笹はそうした心境を反映するかのようである。
けれども基調はここでは何よりも、彼女の心の清澄さにあるように感じられた。装束もまた、詞に鏤められた流水の
イメージとの呼応を考慮しての選択と感じられたが、それは彼女の流謫の身の上を示すと同時に、そうしたあてどのない道行の中で
示される「狂女なれど、心は清滝川と知るべし」の詞に集約されるような、心の清らかさ、透明感と強く響きあうように
思われる。だから道行に先立つ感情の噴出も、道行を閉じる嘆きもその清らかさを覆すようには見えなかった。とりわけ
水に映る己れを「あさましや」といい、己の狂気に言い及ぶその姿には、寧ろ醒めて冴え冴えとした自己認識すら
感じられたのである。ここに反対物の一致や価値の転倒を読み取るのはそんなに困難なことではなかろうが、
このようは演能に接すれば、そうした図式を抽象することに如何ほどの意味があるのかとさえ思われる。
そうした逆髪の心境に、琵琶の音に導かれての弟宮の蝉丸との邂逅が、もう一度大きな転調をもたらす。それを
象徴するのは、またしても笹であると私には感じられた。笹が逆髪の手から落ちる瞬間、彼女は正気に、坂神から
一人の女性に戻ったのだと感じられたのである。終曲では再び別れが訪れ、蝉丸は残り、逆髪は去ってゆく。
だが、私にはそれが元に戻ったようには感じられなかった。二人の心のそれぞれに非可逆的な変化が生じていたのでは、
邂逅は決して無ではなかったのではないかと、そのように思えた。
勿論、こうした感じ方は観ている私の心境を登場人物に投影したものに過ぎないかも知れない。実際、私は終曲で
自分が抱いていた感覚が何であるのかすら、正確に言い表す言葉を持たないのだ。だが、それは劈頭から
前場の末尾に至るあまりに痛々しい経緯からも、普通に抱かれている逆髪のイメージからも予想だにしなかった
ものであり、それだけに一層、(感覚それ自体は静謐なものであったけれど)衝撃的だった。
「泣く泣く別れおわします」筈の終曲に、それにも関わらず私は、絶望とは異なる何かを感じたように
思う。それは少なくとも琵琶とともに庵の前に立つ蝉丸の心のどこかにあったように感じられるし、
こちらはずっと自信がないのだが、再び遠くに去ってゆく逆髪にもあったのではと思われてならないのだ。
いや、それは逆髪の心の裡にあったものの反映だったのではないだろうか。
というわけで、実のところ受けた印象の強さにも関わらず、今回私は自分が感じたものをまだ分析しきれて
いない。私のような者でも、この蝉丸という作品が古来どれだけ広く深く論じられてきたかについては
仄聞しているが、私が実演に接して感じたのは、この能の持つ底知れぬ奥深さであったような気がする。
実に色々な解釈や見方を受け入れる作品なのではないかと思える一方、それは単純な分析や説明を
受け付けるようなものではなく、だからこそ議論が尽きないのかも知れないとさえ思われる。
いずれにしても今回の演能は非常に鮮烈な印象の、強い説得力のあるものだった。
そしてそれを拝見できたことが得難い経験であったことは確かだし、自分にとって価値が測り知れない
大きさを持つことは確かなことなのである。(2007.12.20)
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