2011年1月2日日曜日

「第26回二人の会」(喜多六平太記念能楽堂・平成22年12月23日)

能「井筒」段之序
シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生欣哉
アイ・野村万作
後見・塩津哲生・中村邦生
笛・一噌仙幸
小鼓・大倉源次郎
大鼓・国川純
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・長島茂・狩野了一・友枝雄人・内田成信・金子敬一郎・佐々木多門

身辺の多忙が昂進した挙句、顧みれば2010年に能舞台を訪れたのはわずかに2回、だが、1年の終りにこれだけは見逃すまいと期した一番が 「第26回二人の会」での香川さんの「井筒」。いつにもまして圧倒的な経験であり、その経験を書き留めるべき自分のことばの欠乏を前に呆然としつつ、 再び慌しい年末の日常に立ち戻らざるを得なかったものの、そこで受け止めたものの或る種の「異様さ」が、そこで演じられたものにたとえ遠く及ばずとも 己れの受け止めたものを言語化せずにおくことを許さないかのようで、言葉足らずになることを覚悟しつつ、ここに記録する次第である。 いつもながら補助席も一杯の見所に加え、いつもに増して多いカメラが、この一番を記憶する眼差し、証言をするであろう眼差しの多様とともに この一番の重みを物語る。それらの証言に伍することはもとより意図するところではない。ただ己れの受け止めたものの「異様さ」の導きに任せて 書き留めておきたい。

「井筒」を作者の世阿弥は「直(すぐ)なる能」と自ら評したというのが心のどこかにひっかかっていたのか、あるいはこれまで拝見した能や 仕舞の経験がそうさせたのか、私は「井筒」という作品を、豊饒ではあるけれど決して複雑ではない、奥行きに富んではいるけれど、 ある意味で抽象的な、言ってみれば時間の自己運動の如きものとして捉えていた。勿論ここでの時間というのは人間の意識のそれであるから、 決して人間的な感情と疎遠のものであるわけではないけれど、例えば、そうしたものが蒸留され抽象化された運動として序の舞を捉えていた。 だがこの日に拝見したそれは、そうした先入観を完膚なきまでに打ち砕く強度と、見る者の心の奥底にありながら、それを無意識の裡に抑圧する ことでやり過ごしていられるような不気味なものを引き出すような凄惨な美しさに満ちたものだったように思える。他所では過去の感情を浄化するもので ありえたかも知れない月の光は、ここでは決して澄み切ったノスタルジアを浸すものなどではなく、寧ろ見てはならないもの、だけれども見ずには居られないもの、 一度は抑圧して忘れようとしたものを浮かび上がらせ、再認させる媒体であるかのようだったし、序の舞もまた、懐かしさに充ちた回想へと解(ほど)けて行く 回想の時間性の運動などではなく、寧ろそのたゆとうようにゆっくりとした何時終わるとも知れぬ律動は、この世ならぬ狂おしさを帯びたものと感じられたのである。

囃子方が刻み、提示する時間も滑らかに流れるものではなく、寧ろ各段毎の変化が明確で、まるで場面が転換するごとに一階層降りた 部屋の扉が一つ開かれ、別の空気の流れ、別の光の調子に不連続に移行するかのようだ。それは寧ろ夢の論理に近くて、一見したところ 非連続で飛躍していながら、背後にある無意識の論理によりあたかもそうなるのが自然なことのように転轍が達成される。

前場の女性の表情は一見したところ穏やかで、慎ましやかでいて、心の奥底にある何かに憑りつかれたような虚ろさもまた漂っている感じがする。 実のところ私は、井筒の女の回想が満ち足りたものであるとすれば、なぜそうした満ち足りた回想が何度も反復されねばならないのか、 言い換えれば幽霊となって現れなければならない理由を訝しく思っていたのだが、今回の香川さんの演じる前場の里女の表情を見て、 私が作り上げてきた先入観があっさり覆されるのを感じずにはいられなかった。彼女もまた、道成寺の女と同様、あるいは松風と同様、 「救い」を求めて現れずにはいられないのだ。勿論彼女は感情を顕わにし、その強い情念を身体的な動きに転嫁したりはしない。 だが、あのイグセの部分の静かさの裡に、どんなにか深く激しい感情が篭められていることか。ふと移ろう表情が一瞬見せる、どこか絶望したような 翳りを見てとって、思わずぞっとせずにはいられない。年齢もまた不思議な揺れを示すかのようで、ある瞬間には幼女のような純真さがよぎったかと思えば、 ふとした折に、まるで老女と見紛うばかりの表情が垣間見られたりして、一見「直なる」作品のうちに複雑に畳み込まれた時間の重畳を見るかのようだ。

だから後場の序の舞もまた、ノスタルジアの、過去に向かって下降しながら解(ほど)ける時間などではない。否、そういう側面がない訳ではないだろうが、 到底それだけでは汲み尽せない、行き場のない、逼塞して滞るほかない想いが、もう一度自分の因って来る由縁を確認するために歩みだすかの如く、 底知れない感情が背後に隠れていることに気付かずにはいられない。「段之序」の小書きにより謡われる詞もそうした機序を強調する。 舞は過去に遡及することで自分が喪失したものを回復するための、癒しを、救いを求める心の動きそのものであるかのようだ。

舞い終えて後、井戸を覗き込むあの有名な型の部分もまた、正視するのが憚られるような痛々しさを私は感じずにはいられなかった。 彼女が井戸の水に映る姿に認めたのは、一体何だったのだろうか。舞の後、自分が喪失したものが回復されたことを彼女は再認できた だろうか。彼女の心の傷は恢復しただろうか。過去を遡り、己を虚しくして喪ったものに到達したその瞬間に、時間は逆転する。 井戸から顔を上げたのちの姿は正視に耐えぬ程に傷ましい。逃がし止めのように時間が弾け、彼女が待ち続けた時間の堆積が「老い」となって その表情に現れるかのようだ。いっぺんに老婆のような表情に面が変わる様は圧倒的で、生身の人間が演技して作り出す表情に優る、 仮面劇である能が持つパラドクシカルな凄みを再認した。

些か突飛な連想だが、私は井戸に映る己の姿を覗き込むもう一つの能、「蝉丸」の逆髪のことをふと思い浮かずには いられなかった。勿論、彼女達2人を並行して論じることはできない。井戸を覗き込むときの心持ちも、井戸の水に見出すものも、 逆髪と井筒の女ではほとんど正反対と言っても良いだろう。私には寧ろ、狂女であるはずの逆髪の方に澄み切った自己認識を、 美しく柔和であるはずの井筒の女の方に盲目的で無意識的な、そして決して癒されることのない狂おしくも絶望的な想いを感じずには いられない。彼女の心は恐らく癒されることなく、夜明けとともにひととき消えても再び、時間を折り返し、遡行しようとする舞は、 井戸を覗き込む所作は繰り返されるに違いない。井戸の水鏡の反映が呼び起す反復の裡に彼女は閉じ込められてしまっている。 もう一つだけ対照となる例を挙げれば、彼女は、例えば「定家」のシテのように墳に戻るのではない。香川さんが演じられた 式子内親王は痛々しい痩女でありながら、その序の舞は報恩の舞だし、少なくとも舞っているその瞬間、彼女の心は過去への 執着からは解き放たれていると確かに感じられたのに対し、井筒の女の舞は、それ自体、過去への執着そのものなのだし、 にも関わらず、あるいはそれゆえに一層、圧倒的に美しい。面の表情も柔和で、笑みを湛えていながら、どこかに道成寺の あの絶望的な悲しみを湛えた「蛇」の表情の美しさの影が揺曳する感覚を断ち切ることができない。

「直なる能」と言ったとき世阿弥が言わんとしたことを曲解しようというつもりはないけれど、この演能を拝見して感じたのは、 この能はある意味では、人間が救いを求めざるを得ないような心的な傷を巡っての物語を端的に、月の光と井戸の水鏡という シンプルな舞台装置を用いて率直に劇化したものであるといえるかもしれないということである。だがそこで展開される心の動きの 深さ、激しさ、表層の柔和さや雅やかさの背後にある不気味なものを抉り出したのは、シテの香川さん、そして友枝さん率いる地謡と 囃子方の力量によるものに違いない。繰り返しになるが、ここに記したのは例年にもまして能に接する機会を断たれた人間が一度きり 受け止めた甚だ一面的な印象に過ぎないし、その上、自分の容量と能力の限界に応じて、受け止めた僅かなものすら 十全に言語化できてないことを強調せずにはいられない。更にその上、その演能の凄みは寧ろ言語化される手前の深淵を開示 するものに違いないのである。香川さんの能を拝見していつも感じるのは、そこで展開される出来事が、自分の容量を遥かに超えた 豊かさを持つものであることだが、今回もそれを強く感じずにはいられなかったことを付記して一旦筆を擱くことにする。(2011.1.2,3)

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