2013年4月14日日曜日

「第7回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成25年4月6日)

能「伯母捨」
シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生閑
ワキツレ・宝生欣哉・御厨誠吾
アイ・山本東次郎
後見・塩津哲生・中村邦生・友枝雄人
笛・一噌仙幸
小鼓・大倉源次郎
大鼓・柿原崇志
太鼓・観世元伯
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・粟谷明生・長島茂・内田成信・金子敬一郎・大島輝久・佐々木多門

2007年の初回から数えて7回目となる今回の香川靖嗣の會は、老女物の中でもいわゆる「三老女」の一つである「伯母捨」が取り上げられた。 いつもの通りの公演冒頭の馬場さんのお話では、永く能に親しみ、とりわけても香川さんの演能に立ち会ってきた方々にとって「いよいよ」という 言葉がぴったりくる番組であることを、いつになくインティメイトで期待感に溢れた熱の籠った口調で語られていたが、まだ能を拝見するように なってようやく十年を過ぎたくらいの私のような人間にとっては寧ろ、これまで話には聞くばかりで拝見する機会がなかったあの「伯母捨」を 拝見できるという、自己の文脈において「いよいよ」という言葉がぴったりくる。

生憎の春の嵐の到来が予告される日となったにも関わらず、いつもの通り補助席が出て満席の盛会も、この期を逃せば恐らくは再び 拝見することの適わないまさに一期一会の機会であると考えれば不思議はない。私のように年に数回ばかりしか演能を拝見する 余裕のない人間にしてみれば僥倖とでも言うべき機会であった。

だがその「いよいよ」の番組を拝見しての印象はと言えば、一週間を経てもなお、自分が受け止めたものを十分に言葉にすることが できるようには思えない。否、受け止めたものを十分に言語化して定着させることができないもどかしさは毎度のことであり、 今回に限ったわけでもないのだが、今回については自分の観たものが、自分の中で咀嚼されることなく、その異質性を 保持したまま自分の内部に埋め込まれてしまったような感覚がある。あるいは自分が気づかないだけで自分の奥底に 秘められている自分自身にとっても未知の部屋の存在に気づかされたような感覚と言い換えても良いだろう。

幸いにも香川靖嗣の會を毎回欠かさず拝見させて頂いてきて、回を重ねる毎にとみに最近強く感じるのは、その演能の内容が、 私のような人間が受け止めるにはあまりに豊かであまりに価値あるものなのだということである。今回は更に番組が「伯母捨」で あったことが加わって、自分が見所で観たものを、それに相応しい仕方で受け止めるだけの準備が自分に出来ていないことを 痛感せざるを得ない。だが、私としては、そうした事態を踏まえた上で、自分が感じたことを書きとめておくほかない。それは 自分の不確かな記憶の中に封じ込めておくにはあまりに大きな価値を有しているので、それを自分の外部に定着させ、記録する ことが恰も自分にも果たすことのできる最低限度の義務であるかのように感じている。以下は未だ観能の記録にすら達してない、 演能を拝見したとりとめのない印象に過ぎないが、ともあれそれを書き留めておくことにする。

老女物の中でも特に別格の稀曲というイメージからの先入観とは裏腹に、実際に拝見してみると、勿論、常ならぬ雰囲気が鮮烈に 感じられることは確かだが、「伯母捨」の能の構造自体はそっけないと思われるほどに非常に簡素なつくりの複式夢幻能であることに気づかされる。 何よりもまず、前場があまりにあっさりと経過することに驚かされる。だがそれは複式夢幻能の「典型」であるということではなく、 実は「複式夢幻能」に常には存在しているはずの脈絡のようなものがほとんど削ぎ落とされてしまっていることに起因しているように思われるのだ。

里の女と見えたものが実は捨てられた老女の霊であることが明かされるが、その由来は語られることなく消えてしまう。常ならばいわば前場の 「復習」のように由来を語る間狂言で、だがここでは初めてその脈絡が明かされる。具体的な固有名まで織り込まれたアイの語りは 演者の力量も相俟って、能の本編でのしかしたら意図的な「言い落とし」をあたかも補償するかのような克明なものだ。

だが後場ではその脈絡が敷衍されることなく、あたかもそうした過去の経緯など別世界での出来事であるかのように月夜の舞となる。 舞を終えた後、一瞬だけ過去への意識の流れが迸るが、まさにそれを契機にして夜が明け始め、ワキはシテを残したまま舞台を去ってしまう。 シテもまた自分の妄執を語ることもなければ、回向による成仏もなく、ワキが先に去った後も舞台に残るシテは最後は蹲ったまま、 (まるで葛が覆う塚に帰っていく「定家」のシテのように、恐らくは「再び」)石となり、山と同化してしまう。終曲後、シテが立ち上がり、 橋掛かりを通って舞台を去っていくのを見所は見守ることになるが、それは作品の末尾で現実とは異なった或る別の次元で凝固してしまった 時間を、日常の次元の時間の流れに戻すために必要な行為とさえ感じられる。

順序が前後するが、太鼓がついて人間的な秩序からの離脱が強調される序の舞もまた、まばゆいばかりの月光の氾濫の中で、 時間の経過を拒むように歩みを緩め、そこかしこで今にも立ち止まりそうになる。実際にはそれが終わって停止すれば、 彼女は再び石と化する他ないのだ。「伯母捨」の能は、他の蔓物の能がいわば 背景として潜ませていた闇を物語の外部にいわば押しやってしまい、その結果として透明で神々しい月光に満たされた世界のみを 見所に提示するかに見える。だがそこまでして排除しなければならなかった闇の深さを舞台の上に満ち溢れているかのように感じられる 光のまばゆさによって測ることができるように、一見すると無心にさえ感じられるその舞は、繰り返し繰り返し石から甦らせるだけの 衝迫が支えているものであることをその舞そのものから感じ取らずにはいられない。

実際に初めは仏性の顕現であるかのような神々しさを帯びているというのに、舞が終わった後になって あの「わが心慰めかねつ更科や姨捨山に照る月を見て」の歌が、ついで「返せや返せ昔の秋を」という詞が謡われるとき、 彼女が己の妄執と呼ぶもの、彼女を石と化し、山となった状態から一人の老女の姿に呼び戻す力の存在がようやく顕らかになるように 感じられ、見所は非常に簡素なつくりの複式夢幻能と見えた作品の構造そのものの背後に潜む力の大きさに気づかされる。

番組冒頭に馬場さんも言及されていたことだが、この老女には若き日の栄華があったわけでもないとしたら、「かへせやかへせ昔の秋を」 と呼びかける昔とは、一体どんなものであったのか?自分の妄執の原因となった出来事は能の時空においてはいわば抑圧され、 ワキと見所は辛うじてアイの語りを通して知るばかりだ。その昔というのが捨てられた山中で降り注ぐ月光の下に垣間見た浄土の光景の中を 舞い遊ぶ経験のことであるとしても、その舞は(少なくともそれを経験している意識の水準では)常に最後まで辿り着くことなく終わってしまい、 彼女はそれによって救われることはないかのようだ。

修羅能であっても蔓物であっても、シテは自分の妄執の根拠に辿り着くことによって、 それを言語化し、反復することによって開放されるのだが、そうした心的な機制はここでは機能していないかのように思える。 寧ろ円環を描くように、夜明けとともに中断される月夜の舞が繰り返されるかのようなのだ。彼女が確かに観たと思った浄土の光景は、 彼女の凍りついた心に映し出された幻想ではなかったか、彼女は自分の受けた傷を自分の内奥深くにクリプト化して埋め込み、 それごと心を凍らせることによってしか清澄さを獲得することができなかったのではないかとさえ思える。それゆえその舞はこの世ならぬ美しさに 充たされつつ、どこか目を背けたくなる程の痛ましさを孕んでいるのではなかろうか。例えば「阿漕」のような、老女物の対極にあると見做されて いる作品(「三卑賤」という言い方もあるようだ)のシテは自分の妄執を反復しつつも、救いを得られずに永遠に悪循環を繰り返すほかない。 捨てられた者がそこに己の安らぎを見出した幻想に回帰し続けるほかないというのは、それが自分の蒙った傷からの恢復ではなく、 その傷をいわば封じ込めることによって辛うじて確保することのできた束の間の平安の達成を盲目的に反復する無意識の力のなせる業では なかろうか。

だがしかし、月光に充ちた浄化された世界を開示する序の舞を繰り返し舞うことが、自分自身からも隔てて、恰も自分の中にもう一つの 外部を穿つが如く、心の奥深くに封じ込めずにはいられない程の力を持つ経験の闇の濃さのいわば反作用の如きものであるとするならば、 一体いずれが救いであるのかは人間の判断を超えた問いではなかろうか。人は序の舞が始まるその瞬間にはあたかも救いが成就したかの 思いに捉われてぞっとする。あたかも人間が人間のままでは辿り着けない何かに触れたような感じがして、寄る辺なさに捉われずにはいられない。 捨てられるという極限的な状況こそがそれを可能にしたに違いないという認識自体におののかずにはいられない。更にはそうした極限的な 状況におかれた人間が自分の脳内に生み出した幻想に過ぎないのかも知れないという可能性の冷徹な認識に自らたじろがずにはいられない。

これは「老女物」の能が演者に課すとされる、一見したところ矛盾しているかにさえ見えるパラドキシカルな制約と構造的に同型ではなかろうか。 人がその一生の果てに最後に追い求めるものは、実はその時点では既に徹底的に損なわれている当のものであるかのような、極限的な、 だけれども実は人間という儚い存在にとっては当たり前であり、貴賎や貧富、栄耀の有無を問わずに突きつけられざるを得ない状況を 目の当たりにして、見所もまた、その美しさと勁さに打たれつつ、同時に自分の心の奥底のどこかが麻痺し、凍り付いていることを感じず にはいられない。だがその美しさと勁さとが、人間の尺度を越えたものに接したときに人が感じる「崇高さ」に達するものであるとしたら、 それはまさに「老女物」のようなパラドキシカルな形でのみ人間にとって開示可能なものなのではないかと思われる。あるいはこの後、 更に自分が老いていくにつれわかってくるものなのかも知れないが、今、この地点で接した私には、差し当たりそのように受け止める他ない。

アドルノが全く別の文化的伝統の中での一つの極限とでも言うべきある作品に対して用いた「救い主の危険」ということばが脳裏をよぎる。 能はかくして単なる趣味・娯楽ではありえず、演劇としての内容すら捨象した極限において、三輪眞弘さんがこれまた一見したところ 全く異なる文脈で音楽の定義として述べた「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を 想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、 そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」こそが相応しいものに感じられる。それは虚構であったとして、幻想であったとして、 だが、そこで確かに実現されるのだ。そしてそれを実現するためには一生をかけた鍛錬の裏づけをもった名人の芸の力が必要なのだ。

演奏の素晴らしさについては改めて言うまでもないし、私のように技術的な方面には疎い人間がそれを十分に記録できるとも思えない。 自分の聴いたのは確かに様式化した能のお囃子であり、謡であり、語りであった筈なのだが、自分の心に定着し、 残っているのは、その文字通りの音色や節回しであったり間合いであったりというよりは、もっと大きな風景や気象の変化、 もしかしたら人間的な尺度を半ば超えているのであろう、地質学的・天文学的とでもいうべきリズム・呼吸のようなものであり、 その中に、ほとんどその風景に同化し、風景の一部となりかかりつつ、だが決して完全には同化し消滅することのない、 或る種の「念」とでも呼ぶほかないものの気配である。

あるいはそれは、この日の観能によって呼び起された、自分の内奥の、 無意識の領域の声の幽かなこだまなのかも知れない。日常の世の成り行きとの関わりのなかでは埋没し、意識されることのないその声は、 だが実は、そうした日々をやり過ごすための原動力であるかも知れないとも思う。それが「幻想」であったとしても、月光の下で垣間見ることの できた風景があれば、それを反芻することが或る種の救いになりえるのだ。勿論、それ自体「仮初め」の、ある意味では失敗を運命づけられた 救済なのであるが、それでもなお、彼女はそれを反復し続けるだろう。

私は「伯母捨」の老女に同化できるほどの年齢ではないけれど、その限りにおいてはそうした状況の構造が自分にとって全く異質なものとも 感じられない。否、もしかしたら能を拝見すること自体がある意味では私にとっての還るべき「昔の秋」なのかも知れないとも思う。 何よりもそれらによって何とか日々を生きる力を獲ていることは間違いないことだし、春の嵐の日に数時間の間に確かに接することが叶った 「伯母捨」の舞台が、今後自分が繰り返し繰り返しそこに戻るべき経験となったことは確かなことに思われるのだ。

というわけで、このとりとめのない印象を連ねた文章の結びとして、かくも素晴らしい舞台を実現した香川さんをはじめとする演者の方々に 敬意と感謝の気持ちを記して筆を擱く事にしたい。 (2013.4.13-14)

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