「第108回川崎市定期能」第1部
能「六浦」
シテ・香川靖嗣
ワキ・森常好
ワキツレ・森常太郎
アイ・山本泰太郎
後見・友枝雄人・友枝雄太郎
笛・栗林祐輔
小鼓・森貴史
大鼓・大倉慶乃助
太鼓・小寺真佐人
地謡・大村定・中村邦生・長島茂・友枝真也・谷友矩・塩津圭介
と、上記のようなことからこの感想を書き出したのは、川崎能楽堂で拝見したこの日の番組が、 「六浦」であったからに他ならない。JR川崎駅から程近い川崎能楽堂に向かう途中、京浜急行の高架が 望めるが、その京浜急行は「六浦」の舞台である称名寺のある金沢八景へと通じている。 金沢八景は現在でこそ地名になっているが、元来は、六浦村・金沢村一帯の風物を、瀟相八景に 倣って選んだもの(同工のものとして「近江八景」が著名であろう)であり、 その中には能の舞台である称名寺の晩鐘(「称名晩鐘」)も含まれる。 実際には開発の進んだ現在の金沢八景近郊に昔日の面影を見出すのは難しいのは、他の多くの謡蹟と同じ、 作品が霊感を受け取った風景は、逆説的に今や作品の中にのみ残っていると言うべきであるとはいえ、 月がどこに沈み、日がどちらから上がるといったような詞が産み出す作品の空間が 現実に知っている風景の記憶に重なり合う経験は一種独特のものがあるように感じられる。 そうしたことが起きることで、逆に自分が作品の世界の中に、肉体を備え、光や空気の調子を 具体的に感じ取ることができる存在として定位し、恰もその世界で生きているかのような感覚が 一層強くなって、その風景の中に棲む登場人物の思いを、まるで現実に出会ったかのように 受けとめることができるように感じられるのだ。
そうした体験は、近年目覚しい発達を遂げている仮想現実、拡張現実のテクノロジーによって、 遠くはない将来にはごく当たり前のものになるのかも知れないが、例えば巷で話題のゲームが 惹き起こす現実との齟齬を見聞するにつけても、能楽の備えているポテンシャルの大きさには 圧倒されずには居られない。
一例だけ挙げれば、以前、香川さんのお仕舞で「柏崎」の 道行の部分を拝見したことがあるが、偶々私がその経路の一部を何度か実際に訪れたことがあり、 風景の記憶を持っていたために、物狂いとなって善光寺に向かうシテの想いを、何よりもまず 身体的なものとして受けとめてしまい、打ちのめされてしまったのであった。 一曲の能ではないから、時間にすれば数分足らず、装束もつけず、囃子も伴わないお仕舞にも関わらず、 それが産み出すリアリティは今でも自分がその時に見たと感じた風景を思い出すことができ、 その時の心理状態を思い出せる程まで克明なものであった。 勿論、数百年の年月を隔てて私が見た風景と、彼女が見た風景が同じものである訳はなく、 だからここで問題なのは、具体的に測定できる細部の現実との類似の度合い等ではないし、もっと言えば、 彼女が具体的な実在の誰かをどこまで忠実になぞった人物であるかすら問題ではないのだ。
説明のために出来事のタイプとトークンの区別を持ち出せば、ここではトークン間の類似度が 問題になっているのではないのだ。作品として蒸留・抽象され、結晶化された経験のタイプと、 そのタイプに(可能的に)属しうるトークンとの間のゆらぎが演奏によって惹き起こされ、 それによって「経験」が可能となるという消息が問題になっているのであり、純粋なタイプも トークンも現実においてはいずれも抽象に過ぎない。演奏が惹き起こす経験というのは 一見すると非現実的なものと捉えられがちだが、それは実は現実の経験と形式的には 何ら異なることがなく、寧ろ常に作動している「想像力/構想力」を介した人間の「経験」の 原基の如きものとさえ言いうるかも知れないのである。かくして能を拝見することは、 逆説的に、現実よりもより生々しい「経験」の場であるとさえ言えるかも知れないのだ。
今回の演奏は囃方は若手で固められ、川崎能楽堂での演奏の常で、小じんまりとした能楽堂のサイズに あわせて6人の地謡も前列も若々しい顔ぶれであったが、それもまたこの作品の持つ、屈折なく 素直な曲柄を考えればプラスに寄与したように思われる。喜多流は他の流儀と異なって、 演出上も色無しとはしないのが常のようだが、この日の装束、特に後場のそれは 白の長絹(紐が緑色でアクセントとなっている)に萌黄色の大口で、 青葉の楓の永遠の若々しさ、透明で純粋な心をもつ一方で、歌に詠まれて名を上げた後は 身を退くという含羞とも謙虚とも取れる身の処し方を貫いてきた楓の精の、 もしかしたら純朴とも見える程に控え目でありつつ、一本筋の通った存在様態に相応しいものと 感じられた。
実は「六浦」は能の上演をこれまで何度か拝見しており、記憶する限りこれが3度目になる。 私のように人生も半ばに達してから能を拝見するようになり、しかも多忙にかまけて、 その頻度といえば年に数回という人間の場合、いわゆる名作・人気曲の類すら未だ実演に接する 機会を得ない作品が数多あることを思えば、やや例外的といって良いが、いずれも喜多流の 他の方がシテを勤められた過去の上演(後場の装束は萌黄色の長絹に緋の大口であったと記憶する)と 比べて、何よりもまず印象的であったのが、シテの持つ透明感と気品であり、 それは人間も含めた動物的な存在とは懸け離れた、瑞々しい生命感を漲らせつつも体温のようなものを感じさせない、 植物の精ならではのものと感じられたが、それは例えば常とは異なる装束の選択にも現われていたように思われる。
一方で、これも川崎能楽堂で、能を拝見し初めて間もない頃に拝見することができた「杜若」から始まって、 これまで拝見してきた香川さんがシテを勤めた演能の中における植物の精をシテとする作品の 印象は実に鮮明なものがある。のみならず、狭義での植物の精をシテとする能だけではなく、 以前、川崎能楽堂で拝見した「夕顔」は、源氏物語に取材し、その登場人物をシテとするものであったが、 シテの印象は寧ろ、その名前の由来となった夕顔の精ではないかと紛うばかりの儚げな透明感に溢れたものであったし、 客観的には疑いなく陰惨な題材を扱った「伯母捨」さえ、どこかで人間の秩序を超えた存在となって、 まるで月と同化して舞っているかのようであったし、禅竹の手になる「定家」のような哲学的な晦渋さを備え、 人間の運命をより大きな秩序から俯瞰した感のある能ですら、シテがあたかも定家葛の精であるかのように純粋で穢れなく、 人間的な心理の次元をどこかで超えてしまっていて、深々とした寂寥感を感じさせるものであった程である。 上に挙げた演能はどれも皆、清冽で、観終えてた後、日常の中で萎びかかった心が洗われ、甦るような感覚に 捉われたものだったが、今回の演能もまた、そうした印象を強く抱くような純度の高いものであった。
もちろんそれは解釈の不在を意味するものでは全くなく、隅々まで気持の行き届いた所作も謡も、 詞章の深い読みに裏打ちされたものではあるのだが、その上演の有り様は、能を人間の心理を 中心に据えた心理劇の如きものと見做すモダンな方向性ではなく、もともと能が備えていた筈の、 人間とは異なる存在に対する畏怖や人間を超えた秩序に対する感応といった、非人間的なものへの 感受性を感じさせるもので、それだけに一層より深く人間の心理の奥底の、無意識の領域に届くような 強度を帯びたもののように思われるのである。近年の個人の会での演能の充実に接しての今回の演能では、 円熟を突き抜けて可能となる自在さが、人間の尺度からすれば永遠に歳を取らないとさえ感じさせるような 純粋さや若々しさを実現していたように感じられた。
このように書いてしまえば、解釈よりは技術に、内容よりは外形的な所作に重点が置かれ、 古風で反時代的な上演と受け取られてしまい兼ねないが、決してそうではない。 そうではないどころか、舞台の上に一瞬だけ、日常を超えた何かを現出させるという点においては、 冒頭に述べたような今日のテクノロジーに優るとも劣らない先鋭さを帯びているのである。 今や感性すらも情報処理の対象となりつつあるが、一見したところ古式ゆかしく 反時代的な存在であると見做されかねない能楽が見所の心に働きかける「魔術」もまた、今後少しずつ 解明されていくのであろう。だが、もしそうなったとしても、この「六浦」の能を拝見して 経験することができた「出来事」の質は些かもその鮮明さと深みを喪うことはないであろう。
植物と人間との交感ということについても、しばしば「草木国土悉皆成仏」という言葉で語られる、 日本独特のアミニズムに基づいた独特の仏教観に言及されるのが常であり、実際に「六浦」も またそうした文脈に位置づけられる作品なのではあろう。だが演能を拝見するという経験が呼びおこすのは、 そうした知識よりはより具体的である意味では日常的な位相を備えた感覚である。 例えばそれは、近くの里山に在って時折足を運ぶ谷戸の一番奥まった処にひっそりと佇む巨大な樹木を、 或は冬晴れの日の午後に、或は夏の早朝に訪れた時に感じられる何かにより近いようなのだ。
人間とは全く異なった形態で、だが決して無関係にではなく、一つのバイオスフィアの 成員として自分の目前に佇む巨木。全く自分とは異なった過去を持ち、偶然に導かれてそこを自分が (ワキの僧のように)訪れることによってその存在に遭遇した、だが実際には知らぬままに同じ圏に 住まっていた筈の、自分とは全く異質の存在。動物のように周囲の状況に応じて動き回ることもなく、 だがもしかしたら私よりも遥に長い寿命を持ち、遥に多くの季節の循環の中を生き抜いていく存在。 そうした存在が自分と同様に「生きている」ということに気づく瞬間というのがあって、 それは滅多に起きることではないかも知れないけれど、何か大袈裟な天変地異や奇跡の如きものでは全くなく、 密やかで、日常的なもの、鄙びた風景の中でいつ起きても不思議はないようなものに違いない。
いや、それはお前の勝手読みだ、個人的な事情に過ぎないと言われてしまえば返す言葉はないのだが、 藤谷和歌集の冷泉為相の故事に取材した「六浦」の能は、だがその典拠を遡行した果てでは、 個別の出来事を越えて、感受性が触発される場をより普遍的な仕方で指し示しているのであって、 私の場合には偶々それが、自分の具体的な経験の記憶の中から汲み上げられると上記のような感覚に なるのでないかというように思えてならないのである。
否、それが個人的な戯言であることは認めても良かろう。それでもなおそうした経験を惹き起こした 演能を拝見したという事実は残る。そしてそれは、いつでもどこでも起きるようなものではないし、 もっと言えば、「六浦」という作品が上演されれば自動的に惹起されることが保証されているものでも なかろう。能楽の持つ呪術的、神話的な側面、人間の無意識に働きかける力は、最高度の技量と隅々まで 行き届いた解釈の賜物なのだ。その結果としてこの日の演能の最後、キリの場面で起きた事については 恐らくその場で一緒に見所に居た方々は同意してくれることであろうと思う。このような経験をもたらした 演者の方々への敬意とともに、そこで何が起きたかについて、以下に、筆の及ぶ限りで書き留めることをもって この感想の結びとしたい。
私はこれを比喩として語っているのでは決してない。客観的に分析すれば、それはシテの所作が 惹き起こした効果である或る種の幻覚の如きものということになるのであろうが、 演能に向きあって、自分もまたワキの僧とともに仮想の、何時とも知れぬ称名寺の庭に居る人間は、 その風を実際に肌に感じ、視界全体にぐるぐると回る色彩の氾濫を目の当たりにして眩暈に襲われた筈である。
その風が止むと、もう其処は鄙びた(架空の世界での)日常の称名寺であり、楓の精の姿は勿論、 影も形もない。ワキの僧が留拍子を踏めば、その鄙びた日常も消えて、 現実の能楽堂の舞台が目前にあるばかりである。だが先ほど見た、一時の奇跡のような色彩の 氾濫の印象は心の中に確かに残っていて、微妙に現実感がずれているのを感じつつ席を立ち、 御礼の挨拶をして能楽堂を後にする。
もっともその存続もまた、無条件で保証されたものではあり得ないだろう。 だが、個人の無力はそのようにして補償され、人間がその歴史の中で見出した価値というものが継承されていく、 そのプロセスの中に自分もまた属しているのだ、という認識を持つことは何とも心強いことに感じられるし、 自分がわずかばかりでも、結果を受け取るだけという間接的な仕方であっても、それでも尚、 「神の衣を織る」ことに与っていると思うこと程大きな慰めはない。 それはその場限りの感動とか、個人的な嗜好の問題を超えたものであり、 自分のやり方の不十分さ、不完全さは承知の上で、それでも尚、このようにそれを証言することは、 それを受け取った者の或る種の義務の如きものである、ということを改めて強く感じずにはいられないのである。 (2016.8.6-28)
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