2009年9月6日日曜日

「第87回川崎市定期能」(川崎能楽堂・平成21年9月5日)

能「夕顔」
シテ・香川靖嗣
ワキ・工藤和哉
ワキツレ・殿田謙吉
アイ・野村扇丞
後見・友枝昭世・井上真也
笛・槻宅聡
小鼓・森澤勇司
大鼓・柿原弘和
地謡・中村邦生・粟谷明生・長島茂・友枝雄人・内田成信・金子敬一郎


前回の「砧」に引き続いて、今度は川崎能楽堂での「夕顔」を拝見。ただし今度は(別にゆとりができた訳ではないが)きちんとした スケジュールに則っての観能で、心のどこかには澱のようなものが残っていはしても、前回と異なって気持ちよく見所に着くことができた。
「夕顔」は「源氏物語」に取材した能であり、謡のそこかしこに「源氏物語」のことばが織り込まれていはするものの、怪異譚的な側面を 切り捨てて、夕顔の法華経による成仏のよろこびの舞を中心に据えた、人によってはクリシェであると感じるかも知れない程に複式夢幻能の 型式に素直に収まった、すっきりとした構成を備えている。同じ題材に取材した「半蔀」に比べても一層、宗教性や透明感が勝っていて、 普通の意味での心理的な解釈を受け付けない。五条のなにがしの院とは融の大臣がかつて住まった処であるという読み込みがあるらしいが、 そういえばこの能はどこか「融」に通じる部分があるかも知れない。 (これは能が終わってから気付いたことなのだが、そうして思い起こしてみると、玉蔓にゆかりある豊後から来たという設定になっているワキの僧の工藤さんは、 以前拝見した香川さんの「融」でもやはりワキを演じられていたことに思い当たった。偶然かどうかは詳らかにしないが、「融」の時と同様、今回もまた ぴったりと役柄に填まっていたと感じられた。) 夕顔は寧ろここでは植物の精のようで、曲の雰囲気はその宗教性ともども、 精霊をシテとする蔓物に近づくかのようだ。囃方も謡もそうした曲の趣に相応しく、前半はどこか鄙びた雰囲気のある、そして後半は透明で決して 淀まない響きで非常にコヒーレンスの高い演奏だったと思う。その中で後場のシテの到着を告げる一声の笛だけは見所の隅々まで空気を圧するような 強さを湛えていたのが印象的だった。
前場、幕の向こうから声がするのをワキ僧が驚いているとシテが現れる。シテは常座で全く姿勢を変える事無く、その場所の謂われを謡う。 ワキとの問答の後、正中で着座してからは不動の姿勢の中で、謡の内容に照応するように、微かに面を照らしたり、曇らせたりすることによる 表情の変化が印象的で些かも弛緩するところがない。香川さんのシテでの前場の素晴らしさはいつものことながら、この曲のような奇を衒ったところのない作品では 一層その充実が際立つかのようで、簡潔な型で魔法のように詞通りに本当に気配を消してしまう前場の最後の部分には何時ものことながら 驚いてしまう。
しかしこの能の白眉は何といっても後場の序の舞にある。舞は僧に対する感謝の合掌で始まる。つまりこれは成仏のプロセスではなく、それが 既に成し遂げられたことに対するよろこびと感謝の舞なのだ。舞は信じがたいほどの透明感と純度の高さで、序の舞だから時間の流れはゆっくりと したものだが、その歩みは決して重たくない。寧ろためらいなく、淀みなく、だが急く事無く、溢れ出る泉の流れのように自然である。 足拍子は空間のどこかから響いてくるようだし、運びはほとんど重さというのを感じさせない。しかし何より印象的なのは、舞手の表情の穏やかな 笑みで、だから謡の詞に「夕顔の笑みの眉」とあるのを聴いて、あらためて心打たれるのである。そう、それは仏の笑みなのだ。
キリの夜明けは圧倒的である。舞台を風が吹き通り、光が満ち溢れ、その光の中にシテは溶け込んでいく。橋掛りの途中でシテは留めるが、 拍子を踏むことはない。囃子が動きを止めてからも見所も全く動かず、ワキの僧とともにシテが去ってゆくのを見送る。場内の空気の調子が 変わってしまい、すっかりと澄み切って清められたかのような印象を誰もが抱いたのではないか。見所もまたその余韻に浸り続けて動かない。 これは能ならではの本当に素晴らしい経験なのだと思う。拝見する前に心に蟠っていたものが溶けてなくなり、自分もまた新しい身体を得たかの ような気分で見所を後にすることができた。
恐らく能を観たことのない人、もっと言えば能を観たことがあっても、このような素晴らしい舞台に接した経験がない人には、私の書いた印象が (筆力不足はあって不十分ではあっても)本当に観た人間の心身に起きたことであることがわからないかも知れない。あるいはまた、冷静に そうした印象はそれ自体かりそめのもの、もっといえば仮象に過ぎない、まやかしに過ぎないとして嘲笑する人がいるかも知れない。一方で私の 様な観方は、能の持つ芸術的な、独自の美的価値をないがしろにしているという批判も考えられよう。だが私はそのいずれに対しても 反論したいとは思わない。百歩譲ってそうした人の言い分を認めてなお、私にはこのような舞台を拝見できることの意義は明らかだし、 私はこうした経験無しに「世の成り行き」をやり過ごせそうには思えないし、生憎私は、たとえそれが間違っていたとしても、そうした「世の成り行き」の 中で自分の居場所を主張するだけの生き方はできない。決して理解してもらえることはないだろうが、ともあれ私には「別の場所」が必要だし、 別の価値観の中でないと生きていけないのだ。そしてそうした私にとって香川さんの演能を拝見することは他では得難い、 かけがえのない心の糧なのだということをこの演能を拝見することで改めて確認した次第である。(2009.9.6)

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