2004年11月20日土曜日

「国立能楽堂2004年11月定例公演」(国立能楽堂・平成16年11月19日)

能「三輪」
シテ・香川靖嗣
ワキ・殿田謙吉
アイ・野村万作
後見・中村邦生・佐々木多門
笛・杉市和
小鼓・福井啓次郎
大鼓・国川純
太鼓・助川治
地謡・塩津哲生・出雲康雅・大村定・長島茂・狩野了一・友枝雄人・内田成信・金子敬一郎

実は国立能楽堂自身の公演に行くのは初めて。とにかくチケットの入手の困難さに最初から敬遠していたのだが、 前回の喜多流自主公演に続きお誘いをうけて、香川靖嗣さんシテの能を拝見するために、仕事を終えて 国立能楽堂へ向かった。
仕事帰りにあわせた催事は多いが、これが実に行きにくい。スケジュールの調整もあり、コンディションの 問題もある。また、(これは開始時刻への配慮の結果なのだから仕方ないが)終演が遅く、翌日の心配まで しなくてはならない。実は今回も多忙な時期に重なったこともあり、くたくたの状態で能楽堂に辿り着き、 ちゃんと拝見できるものやら、心配した。
一方で、優れた上演は寧ろそうした疲れやコンディションの悪さをものともせず、寧ろ、鑑賞を通して 心身ともに甦った気持ちになることもしばしば経験する。そして今回の「三輪」もそうした素晴らしい 上演だった。

「三輪」は不思議と拝見する機会があって、今回が3回目。番囃子を含めれば4回目になるが、今回の上演の 印象は、人間離れした神々しさに尽きると思う。「三輪」という能は筋書きを追ってしまえば、話の脈絡や 登場する人間なり神なりのパーソナリティの一貫性の点で混乱した印象を抱きかねないのだが、 今回の上演では、それが全く気にならない、寧ろそうしたパーソナリティの変容や場面の転換が連想の糸を 辿って継起してゆく有様が如何にも説得的で、そうした点でも出色の演奏であったと思う。

細部の印象の克明さも枚挙に暇がない。前場の女の出ですでに醸し出される、どことなく秘密めいた雰囲気、 その女が庵の戸を開けて中に入る、その空間移動のリアリティ。漂う鬱蒼とした森の香り。ひんやりとした 秋の空気の感触。完璧な技術に裏打ちされた演技により、こうした印象がこの上もない明晰さで心に刻み 込まれる。ワキの殿田さんの玄賓僧都も素晴らしく、衣を介した、女の正体を巡っての女と僧都のやりとりの 面白さは格別だった。
息を呑んだのは、前場の終わり、女が消えていくところ。今回は脇正面から拝見したので、作り物の脇に 廻り込む演技は正面から見た場合と異なって、その効果を充分に発揮しそうにないのだが、何と、 気配が段々と薄れていき、まさに「かき消す如く失せ」ていくのがはっきりと感じられたのである。 塩津さん地頭の地謡のうまさもあって、魔法を目の当たりにしたような気持ちになった。
アイ狂言での野村万作さんと殿田さんのやりとりも素晴らしく、衣をめぐって玄賓が杉のもとに導かれる 過程が、その後の苧環に導かれて杉のもとに導かれるエピソードの反復なのだということがはっきりと わかる。有機的に後場を導く糸となっているように思われた。

後半、庵を出て杉のもとに辿り着いた玄賓の前に三輪の神が現われた瞬間も忘れがたい。後見の中村さんが 作り物の幕を下ろすと、光と空気の調子が一変したのである。それが面をかけた人間(しかも男性!)で あることを忘れさせるような圧倒的な光景。
その後、苧環のエピソードを介して、神楽、そして天の岩戸の物語と続く。後場のシテは人間離れしていて、 例えば神楽では、足拍子を踏む度に世界の秩序が形作られていく、混沌からの天地創造(けれどもそれは 神が創造するのではない。神のすがたを通して世界が自己組織化する創発と呼ぶのが相応しい)の過程のように 感じられた。こう書くと如何にも大袈裟だが、実際に見てしまえばそうとでも書くしか表現のしようがない。 例えばハイドンの天地創造はミルトンのテキストの翻案独訳に基づき、もっと大袈裟に、でも同時に 素朴で、ハイドンならではのあふれるような創意と機知に富んだ仕方で天地創造を描きだすが、 ここでは神の舞によりそれがずっと抽象的で洗練された仕方で、けれどももっと直接的に身体に 働きかけるような力をもって表現されている、というような印象を抱いたのである。
人と神、女体と男体、三輪の神と伊勢の神(天照大神)というパーソナリティの交代も気にならない。 いや、シテの演じる神体というのがそれ自体ある種の媒体であり、それを通じて世界自体が自己表現を 行っているような、そういう宇宙的なスケールすら感じられた。

シテ、ワキ、アイ、地謡の素晴らしさは既に述べたとおりだが、囃子もまた素晴らしく、その響きによって 体に溜まっている澱が濯がれていくような清冽な印象。特に、神楽に入る瞬間の助川さんの一撥は忘れ難い。 太鼓の音というのはもともと多分に呪術的なものがあるのだろうが、そこから全てが始まる最初の一撃、 「神楽のはじめ」に相応しい演奏だったと思う。

香川さんの演能は何時も期待に違わぬ素晴らしいものだが、今回の演奏はその中でも屈指の印象で、 今後も機会があれば是非、拝見したい。

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